給料は当時日当制で一日三百円、通勤列車に乗って苅田まで往復三百円でした。弁当を持って会社で働いていると、何をしに行っているのかわからない状態でした。そこで上司に相談し、苅田の寮に入れてもらいました。

しかし、寮費を引かれると手取りはわずかです。それでも仕事ができることに喜びを感じ、一生懸命働きました。

鳶職や配管工の人たちからも可愛がられ、初めは荒くれ男ばかりだと思っていましたが、いざ接するといい人ばかりで楽しい職場でした。

当時のタービンやボイラーは、すべてアメリカからの輸入機械です。経営不振のため2006年東芝が買収した、問題のウェスティングハウス・エレクトリック社のタービンでした。図面はもちろん英語、長さの単位はインチやフィートだったのでミリに換算するのが大変でした。

アメリカから送られてくる機械部品などは、木材の箱でしっかりと梱包されていました。アメリカの香りが漂ってくるような木の匂いがします。

その梱包の中に入っている緩衝材に当時のアメリカの新聞やカタログ、雑誌などがありました。私はカタログや雑誌を食い入るように見ました。日本にはない電化製品やファッション、あらゆる日用品など、戦後十二、三年経っていましたが、日本がまだアメリカに憧れていた時代でした。