相手は、目の前にいる一人しかいなかった。いつもマイナスの言葉しか発しない天才。人を承認など全くしない。たとえ会社では社長と呼ばれる立場にあったとしても、人としての最低限のマナーと品格は備えて欲しいものだ。しかし、その願いは虚しく打ち砕かれていった。

「息子は、お前と知り合ってからダメになった。お前が全部悪いんだからな」

確かに、音声は耳の手前まで来ていた。しかし、耳の奥へは入って来なかった。意味不明、しかも心当たりもなかった。違和感が私の気持ちを支配した。

この「お前」とは、一体誰を指しているのだろうか? 今現在、台所には二人しか存在していない。相手から見ての「お前」は、残り一人しか当てはまらないのである。私の右手人差し指は自分に向いていた。いろいろな迷路を辿ってやっと私のところに着いた。思考回路が繋がったところで返した。

「あの、お言葉を返すようですがそれは違うと思います。結婚してから、夫として父として、会社の立ち場ある人としての行ないは、始めから悪かったので。父親としての責任はもとより、会社における立ち場にも責任を果たさず従業員も大変迷惑しております。一番の原因は、貴方との父子関係、すなわち信頼関係の崩壊にあると思います。会社の社長は貴方です。社長が何とかして下さい。社内もバラバラでまとまりません。よろしくお願いします」

はっきりとした口調で言った。

人から言われることがいっさい嫌いな性格であるから、ここから先はどう展開していくかは想定内であった。

食べることを忘れられた、キムチ鍋は赤くグツグツ煮えたぎり溶岩と化していた。それは今にも噴火しそうな気配であった。天井へ上昇していく蒸気がさらに感情を応援した。

昼食とは、本来ゆったり寛ぎ料理の味を楽しむべき時間なのであろうに、それはとうてい許されなかった。

売られた喧嘩は買うのが私流である。そして負ける喧嘩はしない。

「お前は頭が変だな。まともではないな」

私は今まで生きてきた中で、一番の称賛の言葉を聞いた。称賛の凶器は私の脳をデカいハンマーで叩き割った。脳ミソは台所の床に飛び散った。破壊されたのは脳ミソだけである。心は無傷であった。私の正義は勝っている。心に乱れはない。反対に「ヤッター。ヨッシ」とガッツポーズをした。歓喜の叫びであった。逆境で生きるために私に与えられた強い力を自覚した。

後のバトルは支離滅裂ぐちゃぐちゃだった。人としての理性のかけらもなく、言いたい放題。どれくらいの時間が経過したのだろう。バトル開始から三十分経過した頃、血圧の高い舅は、急に「ふぅーっ」と息を吐き、殺気を失った。

「えっ、もう終わり?」

心の中で、私は、つまらないと呟いた。最後のクライマックスからフィナーレの幕が下りるまで、演じきりたかったのだが、途中で終了したことに少々物足りなさを感じていた。

視界を下げ、キムチ鍋を見ると、スープはなくなり土鍋のへりに赤黒くこびりついていた。

舅は、そのキムチ溶岩を一口体内にドロッと流し込んだ。

※本記事は、2020年10月刊行の書籍『プリン騒動』(幻冬舎メディアコンサルティング)より一部を抜粋し、再編集したものです。