「……さきほどの、住職さまのお話、お聞きでしたか? 建文帝が、城を脱出されたというお話」
「え……ああ」
「つづきは、叙達(シュター)さまにって、住職さまが。お願いしてもいいですか?」

私は、曇明(タンミン)師からきいた話を、口づてに伝えた。母を惟(おも)うて鑿(のみ)をふるった文奎(ウェンクィ)太子のことを。

「百二十年も前に、そんなことがあったのですね。文奎(ウェンクィ)太子は、おかわいそう……」
「うむ……」

私たちは、そろって吉祥天を見あげた。襯衣(しんい)、長袂衣(ちょうけつい)の流麗なひだから、なよやかな肩をつつむ背子(はいす)、おつむりに戴く宝冠にいたるまで、ほかに、何人がここまで刻めようかと思えるほどの、精巧なできばえである。

曹洛瑩(ツァオルオイン)が言った。

「まるで、生きておられるようですね。三年前、ここへ参りましたときも、お顔を拝させていただきました。あのときは、この吉祥天さまは、とても優美で、気高く感じられたのですが、いま、お話をうかがったら、とても、悲しそう……でも、すこし、笑っておられるようにも見えます」

「文奎(ウェンクィ)太子の、記憶の中の母君は、きっと、このようなおすがただったのでありましょう」
「この吉祥天さまは、文奎(ウェンクィ)太子の、思いの結晶なのですね」

彼女はそう言って、つぎの言葉をさがすように、思案げな顔をしたが、ややあって、ぽつりと、あとを接いだ。

「きれい……この花、大好きなんです」
「せっかくだから、なにか、祈念(きねん)して行きましょう」

曹洛瑩(ツァオルオイン)は、ちいさくうなずいて、手を合わせ、瞑目した。時が、静謐(せいひつ)さを、増してゆく。草木をさざめかせた風が、花のにおいを連れて来た。手をのばせば肩にふれるくらいのところに、あの子がいる。

「叙達(シュター)さまは、何を、お願いしたのですか?」
「え……ああ、洛瑩(ルオイン)どのの心が、はやく晴れて、あの、見事なわざを、ふたたび、披露できますようにと」
「えっ? ……わたくしのために、祈ってくださったんですか?」

花がほころぶように、彼女はわらった。
「うれしい」
「そなたは?」
聞くと、彼女は、内緒だと言った。

「洛瑩(ルオイン)どの。夏言(シァユエン)様には、よい演技を、見せてあげて下され。わしに見せてくだすったような、素晴らしい歌とおどりを」

「……はい!」

嘉靖十三年初夏、いにしえ人の思いをはこぶ吉祥天の前に、うす桃いろの可憐な花が、咲いて、揺れた。