第一章 新兵

徴兵

挨拶回りが一段落したある日、杉井は谷川佐知子の家へ向かった。

佐知子は小学校の同級生だった。家が近所であり、たえと佐知子の母みつが女学校時代以来の仲良しだったこともあって、小学校にあがる前から面識はあった。杉井はクラスの女の子と積極的に話をする方ではなかったが、佐知子の方がかけっこを始めとして運動も万能な活発な子で、男女を問わず誰とでも付き合うタイプだったため、杉井も佐知子とはよく遊んだ。

クラス替えがあっても何故か佐知子とはいつも同じクラスで、にわとり当番が同じだったり、運動会の委員を一緒にやったりといろいろ縁もあって、杉井にとっては唯一の女性の親友だった。

切れ長の目が美しく、たえも「佐っちゃんの目は本当にきれいね」と常日頃言っていたが、杉井はむしろ両方の目元からゆるやかに唇に至る頬の曲線が好きだった。

杉井が静岡商業に進むと、佐知子は女学校の城北中学に進学し、毎日顔を合わせることはなくなったが、杉井は時々佐知子に会いに行った。

佐知子の家は谷川紙業という紙問屋で、会社の脇に倉庫があっていつも紙の搬入搬出が行われており、佐知子はそれを手伝っていることが多かった。倉庫の戸は開放されていて、杉井が通りかかると佐知子はそれを見つけて「謙ちゃん」と声をかけ、倉庫から出て来るのだった。

佐知子の家は静岡商業への通学路上にはなかったし、呉服町などの繁華街へ行く際の通り道でもなかったので、頻繁に佐知子の家の前を通ることはあまりにも意図が明確であり、杉井は照れくささに基づく抵抗感を覚えることもあったが、佐知子の方は全くお構いなしでいつも明るく声をかけてきた。

杉井にはそれが嬉しく、家業に就いてからも、茶の買いつけなど外へ用事があった帰りには、いつも遠回りを承知で佐知子の家の前を通って行くことにしていた。

この日も杉井は、佐知子が倉庫で手伝いをしていてくれることを期待しつつ、谷川の家の前を通った。大体二度に一度の確率だったが、幸いこの日はそこに佐知子の姿があった。いつもどおり、佐知子の家の前でわざと歩みを緩めると、佐知子はすぐに杉井を認めた。

「謙ちゃん、久しぶりね。元気にしてた?」
左手の甲で額の汗を拭いながら、佐知子は切れ長の目を細めながら、声をかけてきた。

「ああ。佐っちの方は?」

「私は相変わらずなんだけど、この間おばあちゃんが夏風邪をこじらせて大変だったの。咳き込むし、熱は下がらないし、お父さんも万一のことになるんじゃないかって本当に心配してた」

「それで、もう良くなったの?」

「西先生からもらったお薬が効いて、一昨日くらいからようやく落ち着いてきたの。食欲も出てきたし、もう大丈夫だと思うけど」

「年が年だから気をつけないとね。お祖母さんは働き者だからすぐに動きたがるかも知れないけど、無理させない方がいいよ」