でも胃ろうと鼻管栄養は入れるルートが違うだけで食べられない方に無理矢理栄養補給を行う点で変わりがありません。胃ろうの問題を考えるには私達がいずれ誰にでも訪れる死とどう向き合っていくのかを考えないといけません。

社会保険旬報・24年度5月号に国際医療福祉大学大学院の高橋泰教授の論評「フランスの高齢者に対する胃ろうはなぜなくなったのか」が掲載されています。

フランスでもかつては盛んに胃ろうが造設された。しかし医療関係者、国民の間に尊厳死(自然死)を受け入れる雰囲気が醸成され、その結果胃ろうを造らない選択が行われるようになったのです。

表面的な事象は胃ろうですが、人生の終焉を迎えようとしている方に延命医療を行わない。不必要な栄養補給は行わず自然のままに死を受け入れるようになったということが本質です。

このようなフランスあるいは北欧の選択に対し、わが国においては国民、医療関係者共心の中では考えてはいるもののまだ社会としての合意がないように思われます。

医学は出発点から救命を目的に発達し教育も命を救うことを大前提に行われます。

しかし生を受けた者は例外なく死を迎えます。臨床の場において独善的な判断ではなく誰が見ても回復の見込みはなく、起きて動くことはもとより、話すこともできず生活機能がまったく失われた方がいます。

そのような方に胃ろう、鼻管栄養、または高カロリー輸液を行い半年あるいは1年以上寝たきり状態を継続させる。命を守ることからすれば当然ですがそれが本当に意味あることなのか。疑問のあるところです。

同じように疑問を感じられ、そのような栄養治療を拒否される御家族も増えてきました。しかしマンパワーの不足から在宅での看取りがなかなか困難です。食べられない方は施設も困る。鼻管カテーテルの選択はそんな関係者の妥協点なのでしょう。

でもそのような逃げ道の選択よりも尊厳死の議論が巻き起こって欲しいと思います。

※本記事は、2020年6月刊行の書籍『新・健康夜咄』(幻冬舎メディアコンサルティング)より一部を抜粋し、再編集したものです。