その一方で、しばらくの間は、男子では当たり前にできることができないというもどかしさに私は悩んだ。

それでも、「何とかうまくなりたい」という思いを持って、必死にボールに食らいつく女子球児たちの姿にはこころを打たれるものがあった。

太陽が沈み、すでにボールが見えなくなってからも練習をやめようとしない彼女たちの姿を見ていると、

「自分が何とかしなくては」

という思いがますます強くなってきていた。

それは、かつて戦後の広島の焼け野原の中で、暗くなるまで白球を追いかけ続けた自らの少年の日々を思い起こさせてくれるようでもあった。決して練習環境に恵まれていたわけでもなく、バットもグローブもボールも潤沢だったわけでもない。

それでも、病気を克服した小学校3年生から新聞配達を行い1か月2500円のバイト代を持って、広島駅近くの質流れの品を専門とするお店に行き、購入したグローブをピカピカに磨きながら、毎晩、枕の横に置いて寝ていた。

牛乳配達をしていた時には、冬に積雪があり、雪道で牛乳を積んでいた自転車がスリップして転倒し、ハンドルに掛けていた5合入りの牛乳ビンを割ってしまい、泣きべそをかきながら正直に、

「すいません。自転車が雪で転倒して牛乳ビンを割ってしまいました」

といったところ、牛乳配達屋の女主人がこころ温かく、

「怪我はなかったの。替わりの牛乳ビンをお客さんのところに届けてね」

といわれた時には子どもながら嬉しかったのを覚えている。

一方でこんなこともあった。

アルバイトで稼いだお金で買ったバットは私の宝物だった。

当時は4階建ての市営アパート群の隙間にある、小さな公園で三角野球(四角形ではなく三角形を描いてベースは雑草を引き抜いて作ったもの)を行っていた時のこと、小型三輪トラックが私のバットの上を走り抜け、バットが折れてしまった。

すぐにそのことを伝えようとしたが、知らん顔をされ、三輪トラックが遙か彼方に疾走し、折れたバットを持ってただ茫然としていたことがあった。

この当時野球に夢中になった日々は私にとっての野球の原体験であり、目の前でボールを追い続けている少女たちの姿は、時代も性別も違ってはいても、何ら自分と変わらない「野球を愛する者」の姿だった。

その後も、自らの教え子たちに対して、女子の指導をしたことのない私は、女子中学生のソフトボールチームの外部指導者であり、黒塗りのアメリカ杉でできているカウンターがある居酒屋「長谷川(はせがわ)」のご主人に教えを乞い、練習試合や合同練習を行い、その練習方法を参考にして作った「プロジェクトH」なる基本に忠実な練習の日々が続いた。

それは、地道で根気のいる作業ではあったが、選手たちのレベルは年々確実に上がっていく手応えがあった。

2006(平成18)年、ようやく花咲徳栄高校は春の選抜大会で見事に初優勝を飾る。

この時、私の指示で最初に胴上げをされたのは、女子プロ球団の1期生として入団した小久保志乃(こくぼしの)だった。

在学3年間、丹波で開催された春・夏の全国大会では一度も勝つ喜びを味わうことなく、卒業後、臨時コーチとしてベンチに入り、1塁コーチャーを務めてくれた。選手としての胴上げはなかったが、後輩を日本一に導いた喜びはひとしおだっただろう。

次は阿部清一(あべせいいち)先生。創部から監督をされ、私とともにヘッドコーチとしてチームを支え続けてこられ一番苦労をされた先生であった。

そして最後に宙に舞ったのが私で、涙があふれそうになった。それでも、その涙を生徒たちに見られないように、必死にこらえた。

──もし涙をこぼしたら、生徒たちに〝泣き虫ハマー〟と笑われてしまう……日本一になれたので、これでようやっと普通の生活に戻れるな。

監督就任から5年。私にとっては、一つの達成感を覚えた瞬間であった。

※本記事は、2017年2月刊行の書籍『女子硬式野球物語 サクラ咲ク1』(幻冬舎ルネッサンス新社)より一部を抜粋し、再編集したものです。