ちょうどそんな頃に野球と出会った。

8歳になった誕生日の午後、小学校の教室で授業を受けていると、急に気分が悪くなり、保健室で熱を測ったところ40度近い高熱を出していた。保健室で薬を飲み様子を見ていたが、一向に熱が下がらず、帰宅後、自宅近くの町医者のところへ母親の小さな背中におんぶされ、診察を受けに行った。

医師からレントゲン写真を見せられながら、

「みっちゃんは、左の肺に穴が空いていて、そこに水が入ると死にますね」

と、何気なくいわれた。

病院から戻り、自宅の布団に横たわった私は、

「死んだらどうなるんだろう。どこに僕は行くのかな」

と、ベニア張りの天井をぼんやりと見つめながら考えていた。

病名は肋膜炎(ろくまくえん)であった。

医師からは死の宣告を受けていたが、幸いにも母親の献身的な看病のお陰で1年後には病気を克服することができ、私は当時の多くの少年たちがそうであったように、すぐに「野球」というスポーツの持つ明るさ、そして希望に魅了された。

以来、中学でも高校でも、野球とともに自分の人生があり、大学を出て教員になってからも、野球部の顧問として常に白球とともに歩んでいた。

男子野球部や空手道部の監督として指導をし、その後は農作業に興味を持ち、家庭菜園や千葉県の農家に行って1年の四季を通しての農作業を家族とともに過ごし、自然との戯れに浸っていた私に、突然の辞令が下されたのは2001(平成13)年4月の始業式後のことだった。

「濱本先生には、女子硬式野球部の監督になってほしいの」

男性として生まれ、男の社会で育ってきた私にとって「野球」とは、当然、男子野球のことであり、「女子硬式野球」というのは耳慣れない言葉だった。

──女子が野球をすること。

1週間ほど家族とも話し合い、どうするか迷っていた際、少し気になり女子硬式野球部の練習を覗のぞいてみた。ソフトボール部が以前使っていたグラウンドで、照明やそれを支えていた電柱も新ソフトボール場の方に移設され、荒れたグラウンドで何もないところで、十数名の女子球児が練習を行っていた。

──僕が花咲徳栄高校の男子野球部の監督になった時に似ているな。グラウンドはなし、選手も少ない。それに比べて、本校のソフトボール部は恵まれているな。女子硬式野球部はかわいそうだな。……よーし、やるか。何もないところからでも、日本一になったら辞めよう。

そして私は理事長、校長のところに行って監督就任要請を承諾することにした。

後(のち)に、それがどんなに重い決意を必要とすることであり、さまざまな困難が伴うことであるかを知ることになるのだが、当時の私にとって、初めて目の当たりにする「女子硬式野球」には、驚かされることばかりだった。

花咲徳栄高校女子硬式野球部は、1997(平成9)年の創部以来、一度も勝てない日々が続いていた。全員が初心者だった。ボールを捕ることはもちろん、たとえ捕球に成功したとしても、塁間のキャッチボールでさえままならなかったため、一塁でアウトにすることはほとんどなかった。

風の強い日の練習中に外野手がフライを捕ることができず、ボールが顔面に直撃して病院に搬送したこともあった。バッティングも同様だった。速球には振り遅れ、変化球には対応できずに三振の山を築くばかり。そんな状態では当然、試合として成立することさえ困難だった。

監督就任直後に出場した夏の全国大会では、ソフトボール選手中心の急造硬式チームにコールド負けにはならなかったが3対25で大敗を喫するありさまだった。

──何てみっともない試合をしてしまったんだ……。

恥ずかしさのあまり、私は顔を上げることができなかった。試合終了後、自分を監督に推挙してくれ、試合中、花咲徳栄が何点取られても大声で声援を送ってくれていた佐藤照子校長に試合の報告をするために、私はスタンドに移動した。

その時、校長にいわれたひと言は今でも胸に焼き付いている。

「決して諦めることのないように。いつか必ずみんなに光が射す日が来ることを信じて、これからの練習に励んで下さい」

この瞬間のことを私は後々まで深く、その胸に刻んだ。

そして、翌日の試合結果が載っている新聞の記事に目をやると、そこには花咲徳栄高校大敗と書かれていた。この記事は小さな記事ではあったが、私にとっては大きな記事となり、この悔しさをバネにするために、ハサミで丁寧に切り取り、その後もずっと肌身離さず現在も手帳に入れ身につけている。

※本記事は、2017年2月刊行の書籍『女子硬式野球物語 サクラ咲ク1』(幻冬舎ルネッサンス新社)より一部を抜粋し、再編集したものです。