神矢が真剣に言っているのは、その真面目な表情からよくわかった。彼が女性にもてるのも本当だと思う。ただ、私は、神矢にとって自分がどういう存在なのか、よくわからなかった。そんな事を考えているのを見透かしたように、神矢が続けて言った。

「色々あって、家を出たって言ったけど、君には兄弟はいるのかい?」
「いません」

「僕もだ。なら、僕の事を、歳のはなれた兄だと思ってくれたらいい。兄さんだと思えば、何でも相談できるだろ?」

何となく納得し、私はコクンと頷いた。

「よし。それでいい。……今日はずっとショパンだね。『革命』か」
「さっきは『雨だれ』だったわ」
「君、演奏は誰だと思う?」

「ピアノが好きで、前に中村紘子さんのコンサートへ行って、ショパンを聴いた事があるけど、私、聴きあてなんてできないわ」

「……力強い。男みたいだ。けど……違うな。これは、きっとマルタ・アルゲリッチだ! マスター、このピアニストは誰だい?」

「マルタ・アルゲリッチです」と言って、マスターがニコリと笑みを返した。

その晩、私は『スノーグース』を読んだ。

第二次大戦の頃、イギリスの沼地のそばの燈台小屋に、醜いせむし男の画家ラヤダーが、孤独ながらも野生の鳥達を友達にして暮らしていた。そこへ、ある日、傷ついたスノーグース(白雁)を抱いた金髪の美しい少女が現れ、二人はスノーグースの手当てをするうちに、心を通わせていく。

やがて戦火を逃げまどい海辺に取り残された兵士達を救出するために、ラヤダーは一人でヨットを漕ぎ出して行く。そして、たくさんの兵士を救い、自分は機関銃でやられ、海のもくずと消えた。

のちに、美しく成長した少女は燈台を訪れ、ラヤダーが自分を描いた絵を見つけ、大事に抱え、去って行った。

私は、神矢がこれを読むようにと言った意味を考えた。孤独な男が鳥達に寄せる心の暖かさ、美少女への憧れ、戦場に向かった勇気。少女の無垢な純粋さ。求めない、与えるだけの無償の愛を感じとって、神矢の精神性にふれた気がした。

※本記事は、2019年6月刊行の書籍『愛』(幻冬舎メディアコンサルティング)より一部を抜粋し、再編集したものです。