謎多き天才が残した一枚の絵画をめぐる、
超大作アート・ミステリー。
写真家の宗像は、偶然訪れたロンドンの画廊で、一枚の肖像画に心を奪われる。絵画の名は、夭折した謎多き天才画家ピエトロ・フェラーラの「緋色を背景にする女の肖像」。フェラーラの足跡を追い求めてたどり着いたポルトガルの地で、宗像は美術界を揺るがす秘密に迫っていた。美術界と建築界に燻るスキャンダル。その深部と絵の謎が交錯していく。アートに翻弄された人々の光と影を描き出す、壮大なミステリードラマを連載でお届けします。
受付カウンターは美術館のチケット売り場と見紛うような、上品で落ち着いた佇まいだった。宗像はパスポートを提示すると同時に、千エスクードを支払い、赤絨毯の階段を踏みしめてカジノに入った。
ギャンブル・ルームはカードとルーレットの二種類で構成されていたが、驚いたことに、ただ一人の客の姿も認めることはできなかった。
ガランとした空間の中で耳を澄ますと、静まり返る室内の一角からわずかに聞こえてくる音は、確かにトントントーンと何かがはねる音だ。
その方向に進んでみると、回転台の上を跳ね回る玉の行方を、真剣な眼差しで見つめる二人の客の姿が眼に入った。
どうも営業中のルーレットはこの一台だけらしい。
辺りを見回しながら更に奥へ進むと、所在なげにカードを並べているディーラーが数人いるだけである。宗像は真っ赤なベストを着込んだ若い女性ディーラーに声をかけた。
「静かですね。でもどうしてお客さんがいないのかな?」
「今日は少しおかしいわ。いつもはもっと賑わっているのよ。昨日なんかこの時間から大変な混雑だったのに。でもそろそろ皆さん現れる時刻よ。景気付けに遊んでいってね」
目の前のテーブルを指差し、ウィンクしながらこう話し掛けられたのだが、これでは誰も気乗りがしないだろう。カードルームの右手奥には、客がつかないカウンターを前にして、焦点の定まらない目つきをこちらに向けているバーテンダーが二人いるだけである。
華麗な夜の社交場を期待していたカジノは開店休業状態だった。しばらく歩き回ったが、これから客がどっと繰り出すという具合にも見えない。当てもなく歩き回る途中、ドリンク・サービスをするバー・カウンターに行き当たった。
ここは? 先ほど通り過ぎたところだと気が付き、やり過ごそうとすると、カウンターの右奥に小さな部屋があることに気が付いた。白いエナメル塗りの大きい両開き扉が、手前の一枚は壁に背を付けて開かれ、奥の一枚は直角に開かれている。
そしてその開口部からキラキラした反射光が廊下に漏れ出ていた。赤い絨毯の床は、そこだけ派手な柄になって浮かび上がり、人を誘い込もうとしているようだった。
※本記事は、2020年8月刊行の書籍『緋色を背景にする女の肖像』(幻冬舎ルネッサンス新社)より一部を抜粋し、再編集したものです。
【登場人物】
宗像 俊介:主人公、写真家、芸術全般に造詣が深い。一九五五年生まれ、46歳
磯原 錬三:世界的に著名な建築家一九二九年生、72歳
心地 顕:ロンドンで活躍する美術評論家、宗像とは大学の同級生、46歳
ピエトロ・フェラーラ:ミステリアスな“緋色を背景にする女の肖像”の絵を26点描き残し夭折したイタリアの天才画家。一九三四年生まれ
アンナ・フェラーラ:ピエトロ・フェラーラーの妻、絵のモデルになった絶世の美人。一九三七年生まれ、64歳
ユーラ・フェラーラ:ピエトロ・フェラーラの娘、7歳の時サルデーニャで亡くなる。一九六三年生まれ
ミッシェル・アンドレ:イギリス美術評論界の長老評論家。一九二七年生まれ、74歳
コジモ・エステ:《エステ画廊》社長、急死した《ロイド財団》会長の親友。一九三一年生まれ、70歳
エドワード・ヴォーン:コジモの親友で《ロイド財団》の会長。一九三〇年生まれ、71歳
エリザベス・ヴォーン:同右娘、グラフィックデザイナー。一九六五年生まれ、36歳
ヴィクトワール・ルッシュ:大財閥の会長、ルッシュ現代美術館の創設者。一九二六年生まれ、75歳
ピーター・オーター:ルッシュ現代美術館設計コンペ一等当選建築家。一九三四年生まれ、67歳
ソフィー・オーター:ピーター・オーターの妻、アイリーンの母。
アイリーン・レガット:ピーター・オーターの娘、ニューヨークの建築家ウィリアム・レガットの妻。38歳
ウィリアム・レガット:ニューヨークでAURを主催する建築家。一九五八年生まれ、43歳
メリー・モーニントン:ナショナルギャラリー美術資料専門委員。一九六六年生まれ、35歳
A・ハウエル:リスボンに住む女流画家
蒼井 哉:本郷の骨董店《蟄居堂》の店主
ミン夫人:ハンブルグに住む大富豪
イーゴール・ソレモフ:競売でフェラーラの絵を落札したバーゼルの謎の美術商