第一話

 

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第7回全国高等学校女子硬式野球選抜大会の前日は、丹波(たんば)の山々が雪化粧となった。大会前の練習を雪のため土のグラウンドは使用できず、メイン球場脇に隣接している大型テント内で軽い練習を終えていた。

早く練習を終え、時間があったため、日本三景の一つである天(あま)の橋立(はしだて)を見学に行こうとコーチの阿部先生の運転で、バスは吹雪(ふぶき)が舞い、雪化粧の山を抜けて天の橋立に向かった。

到着後、松林の中を散策したあと、私の発案で、

「今年は、優勝したと思って、校歌を全員で歌いなさい」

部員15名は颯爽(さっそう)とした姿勢で、大声で花咲徳栄高校の校歌を水辺に向かって声高らかに大合唱していた。

翌朝、私は昨夜宿舎で見た夢の話を部員にしていた。

「昨夜、夢を見たんだけど、小高い丘に先生が立っていて、麓(ふもと)の方から山道を5、6人の集団が先生の方に向かってくるんだよね。先生はすぐにその集団のところに行ったの。そしたらね。よく見ると昭和天皇なんです。今まで人生でお会いしたこともないし、夢を見たこともないのに。その昭和天皇から『頑張って下さいね』とお言葉をいただいたんだよ」

と、不思議な夢を見たことを選手たちに話していた。

そして、花咲徳栄高校はなんと快進撃をし、初の決勝進出を果たした。

決勝戦に臨む時は、以前作成した野球テキストブックの中の中村天風(てんぷう)氏の「力の誦句(しょうく)」を力強く読み上げることになっていたので、試合前のベンチ前で選手たちが初めて読み上げた。

力の誦句

私は 力だ。

力の結晶だ。

何ものにも打ち克つ力の結晶だ。

だから何ものにも負けないのだ。

病(やまい)にも 運命にも、

否(いな) あらゆるすべてのものに打ち克つ力だ。

そうだ!

強い 強い 力の結晶だ。

決勝戦、名門神村学園の最後の打者が高々とセンターフライを打ち上げ、中堅手の林愛美(はやしまなみ)の左手のグラブにボールが収まった。グラウンド、ベンチにいた選手が飛び上がり、歓喜の声を出し、嬉し涙を流していた。

この時の「力の誦句」はこの年の夏の全国大会の決勝戦から7年連続決勝戦進出をするたびに力強く読み上げられることになる。

初めての閉会式であったため、行進のやり方も分からず、慌(あわ)てふためき、キャプテン高島が優勝旗を地面に引きずりながらダイヤモンドを1周し大会を終えた。

閉会式終了後、福知山(ふくちやま)市の郵便局前にあった公衆電話から、佐藤理事長をはじめ高橋町子(まちこ)さんなどの関係各位に初優勝の報告と感謝の言葉を述べ、さらに、天に向かって、

──佐藤照子校長先生、ついにやりました

応援ありがとうございました。

と、こころの中で叫んでいた。

翌朝、私は優勝旗を自家用車に積み、埼玉に向かった。

途中、富士山が見えるサービスエリアで、桜が咲き誇る中、美しくそびえる日本一の富士山を見て初めて初優勝をしたことを実感していた。

学校に戻るなり、多くの部活生や教職員が出迎えて祝福をしてくれた。

さらに、1週間後の新学期の始業式では、全校生徒の前で優勝報告、表彰伝達式を行っていただき、昼食時には佐藤理事長の計らいで初優勝のお祝いとして、全校生徒1800人及び全教職員にカツカレーを振る舞っていただいた。

また、女子硬式野球部の保護者を招いての優勝祝賀会まで行っていただいた。

その席で、

「初優勝することができました。故佐藤照子校長との約束を果たすことができました。……ありがとうございました」

と、途中、声が詰まりながら、涙ながらに私は感謝の意を表していた。

放課後、私は故佐藤照子校長の眠る墓前に行き、優勝旗を持って、

「校長先生、やっと光が射しました。努力が報われました。ありがとうございました」

と、お墓に向かって初優勝の報告を行っていた。

数日後、私は優勝祈願をした足利のお寺にお礼の報告に行った。

そのお礼を述べたあと、ふと寺の脇に建立していた石碑(せきひ)が目に入った。

よく見ると、

『天皇行脚(あんぎゃ)の地』

と、書かれてあり、何気なく小高い丘を登ると、その頂上に、

『昭和天皇立ち見跡』

と、刻まれた石碑があった。

そして、麓を見ると、驚きのロケーションがそこには広がっていた。

その光景は、春の選抜大会前に選手に私の夢の話をした際の場所と全く同じ情景だった。

──こんなことがあるんだ。全く不思議な場所だ。

初優勝の余韻(よいん)はしばらく続いたが、私のこころの中は、

──女子硬式野球は一回日本一になるまでで、あとは、以前監督をされていた阿部先生に任せ、また、自然を相手に農作業をやろう。

という気持ちで、日常の職務を全うし、今夏の全国大会で女子硬式野球から立ち去ろうと決めていた。

夏の全国大会を準優勝で終わり、高島はじめ3年生の部員たちが、丹波・市島(いちじま)球場のベンチ前に集まり、

「3年間、ありがとうございました」

と、涙を流しながら感謝の言葉を述べていた。

──これで終わろう。

私は監督を辞めることを決心し、次なるステージの準備をしていた。

しかし、ここに来て東京の駒沢女子高校の女子硬式野球部員や花咲徳栄高校の3年生たちから、平成国際大学に女子硬式野球部を創ってくれないかとの依頼があった。

──駒沢女子といえば、日本で最初に女子の硬式野球大会を行った学校だったな。そこから創部の話があるとはまた何かの縁で、四津さんが天から何かをいっているのかな。

私はまたまた、逡巡(しゅんじゅん)していた。

考えてみると、関東では大学にある女子硬式野球部は元西武ライオンズで大活躍した名投手新谷博(しんたにひろし)監督、スタッフは全日本代表経験者の新井純子(あらいじゅんこ)コーチ、専用グラウンドも持っている尚美(しょうび)学園大学の1校のみであった。

──平成国際大学は練習場所もなし、

できるとしたら花咲徳栄高校にお願いして高校と一緒に練習をやるしかない。

でも、尚美学園大学の女子硬式野球部だけでは今後の大学における

女子硬式野球の発展はない。お互いが切磋琢磨(せっさたくま)してこそ、

初めて栄(さかえ)る。また、ゼロから、無から有(う)を生み出すか。

よーし、やるか。恵まれたプロ集団に立ち向かっていこうか。

そこで、花咲徳栄高校の3年生の熱い懇願に負け、またしても高島を平成国際大学に誘い、最終的に第1期生4名とコーチ兼選手の坪内瞳(つぼうちひとみ・現日本大学国際関係学部女子硬式野球部監督)を合わせた5名でスタートを切り、初代キャプテン高島が誕生し、卒業までキャプテンを務めることになる。

2008(平成20)年8月、高島が大学2年生の夏、日本代表チームは、四国・松山市で開催された第4回女子野球ワールドカップにおいて見事初優勝を成し遂げた。3期連続の代表選手として活躍する高島はこの大会で打率0.721で首位打者・打点王となり日本チームの初優勝の原動力になっていた。

また、11月には平成国際大学は創部2年目にして世界最大の関東ヴィーナス・リーグにおいても、ジャイアンツ球場で宿敵尚美学園大学を逆転の5対4で破り、初優勝を飾っていた。

平成国際大学は専用のグラウンドもなく、予算も少なく、部員も少なく、私もボランティアで監督をし、あるのは逆境に負けない、野球に対する情熱だけであった。

高島のワールドカップでの大活躍やヴィーナス・リーグ初優勝という吉報(きっぽう)と今月末に香港へ花咲徳栄高校、平成国際大学の選手たちを率いて、女子硬式野球の普及を兼ねた海外遠征に行く話を、花咲徳栄高校や平成国際大学の女子硬式野球部を創部していただいた佐藤栄太郎理事長が大変喜ばれていた。

しかし、理事長に吉報を報告した数日後、11月13日の朝、訃報(ふほう)が入った。

突然の腹部大動脈瘤(りゅう)破裂で理事長は帰らぬ人となり、多くの方々から偲ばれ彼岸(ひがん)に行かれた。

享年(きょうねん)80歳。

※本記事は、2017年2月刊行の書籍『女子硬式野球物語 サクラ咲ク1』(幻冬舎ルネッサンス新社)より一部を抜粋し、再編集したものです。