謎多き天才が残した一枚の絵画をめぐる、
超大作アート・ミステリー。
写真家の宗像は、偶然訪れたロンドンの画廊で、一枚の肖像画に心を奪われる。絵画の名は、夭折した謎多き天才画家ピエトロ・フェラーラの「緋色を背景にする女の肖像」。フェラーラの足跡を追い求めてたどり着いたポルトガルの地で、宗像は美術界を揺るがす秘密に迫っていた。美術界と建築界に燻るスキャンダル。その深部と絵の謎が交錯していく。アートに翻弄された人々の光と影を描き出す、壮大なミステリードラマを連載でお届けします。
ピンと張り詰めた空気。正装してグラスを片手にテーブルを回りながら勝負する人々。かねがね一度はこの真剣勝負にかける人間の眼差しを撮りたいとも思っていた。
特殊な場所であることから実際の撮影は叶わずとも、目というレンズを通し、網膜や心に刻み付けられる擬似撮影は、宗像のような作品を発表する写真家にとっては貴重な体験になるはずだった。
前の海岸通りに面し、周囲を緑豊かな樹木に囲まれた広い公園の奥には、カジノ・エストリルが真正面に聳えていた。そのシンメトリーなデザインによって、威厳に満ちた佇まいを見せているのである。
ホテル・プリメイロのフロントでは、有名ホテルにありがちな、極端に慇懃な態度は見られなかった。しかし、シングルルーム一泊だけの、しかも東洋人に対する部屋の割り当てなどあまり良いはずはなかった。
フロントの女性に案内された部屋は、確かに庭園とは反対側に位置する、三階の小さな部屋だった。堅木寄木細工の板が貼られた腰壁。その上部のプラスター塗りの小壁は、装飾的な廻り縁を介して天井につながっている。天井の中央に造られた装飾的なメダリオンから、六角形の古びたシャンデリアが、いかにも重そうなブロンズの鎖と共に吊り下がりながら黄色い光を放っていた。
小さいがそれなりにしつらえの良い部屋だと思いながら窓を開けると、真下に正面玄関の車寄せに架かる庇が見えている。ということは、この部屋は宿泊棟の中央に位置していることになるはずだった。
ポーターが来る前に、ロンドンの心地に電話をかけたが、運悪く電波状態が良好ではなかった。これでは夜遅かろうとも、かけ直すしかないと判断して電話を切った。
このような格式の高いホテル・レストランでは食事をする気にもなれず、ルーム・サービスで軽食を注文した。正面に聳える白い建物の反射光だろうか、オレンジ色に染まった光がカーテンの脇から客室に差し込んでいた。ミニ・バーからワインを取り出し、部屋に置かれた小椅子を窓際に寄せて座り込んだ。
大きくうねる緑の樹木の上には、ホテルやリゾート・マンション群が軒を連ね、そのピンクや黄色いカラフルな壁に、眩しい西日を受けながら、幾重にも重なって遠くまで続いていた。
※本記事は、2020年8月刊行の書籍『緋色を背景にする女の肖像』(幻冬舎メディアコンサルティング)より一部を抜粋し、再編集したものです。
【登場人物】
宗像 俊介:主人公、写真家、芸術全般に造詣が深い。一九五五年生まれ、46歳
磯原 錬三:世界的に著名な建築家一九二九年生、72歳
心地 顕:ロンドンで活躍する美術評論家、宗像とは大学の同級生、46歳
ピエトロ・フェラーラ:ミステリアスな“緋色を背景にする女の肖像”の絵を26点描き残し夭折したイタリアの天才画家。一九三四年生まれ
アンナ・フェラーラ:ピエトロ・フェラーラーの妻、絵のモデルになった絶世の美人。一九三七年生まれ、64歳
ユーラ・フェラーラ:ピエトロ・フェラーラの娘、7歳の時サルデーニャで亡くなる。一九六三年生まれ
ミッシェル・アンドレ:イギリス美術評論界の長老評論家。一九二七年生まれ、74歳
コジモ・エステ:《エステ画廊》社長、急死した《ロイド財団》会長の親友。一九三一年生まれ、70歳
エドワード・ヴォーン:コジモの親友で《ロイド財団》の会長。一九三〇年生まれ、71歳
エリザベス・ヴォーン:同右娘、グラフィックデザイナー。一九六五年生まれ、36歳
ヴィクトワール・ルッシュ:大財閥の会長、ルッシュ現代美術館の創設者。一九二六年生まれ、75歳
ピーター・オーター:ルッシュ現代美術館設計コンペ一等当選建築家。一九三四年生まれ、67歳
ソフィー・オーター:ピーター・オーターの妻、アイリーンの母。
アイリーン・レガット:ピーター・オーターの娘、ニューヨークの建築家ウィリアム・レガットの妻。38歳
ウィリアム・レガット:ニューヨークでAURを主催する建築家。一九五八年生まれ、43歳
メリー・モーニントン:ナショナルギャラリー美術資料専門委員。一九六六年生まれ、35歳
A・ハウエル:リスボンに住む女流画家
蒼井 哉:本郷の骨董店《蟄居堂》の店主
ミン夫人:ハンブルグに住む大富豪
イーゴール・ソレモフ:競売でフェラーラの絵を落札したバーゼルの謎の美術商