弐─嘉靖十三年、張(チャン)皇后廃され、翌十四年、曹洛瑩(ツァオルオイン)後宮に入るの事

(3)

日の出には、まだだいぶ時間がある。

身じたくをととのえ、外門わきの調理場へ入るとき、満月が、皓々と西の空に輝いているのが見えた。

石媽(シーマー)が、豕(ぶた)の背の肉をはこんで来てくれた。ついて来た飛蝗(バッタ)はいつものように、戸口に立って、じっとこちらを注視している。

「もって来たよ」
「ごくろうさん、そこに置いといてくれ」

かわす言葉は、それだけである。

話し好きな女だとはわかっている。しかし私は、毎日、顔をあわせていながら、仕事で必要なこと以外は、一言もしゃべらなかった。はじめのうちは、なにかと話しかけて来てはいたが、こちらがしゃべらないので、話してもむだ、と思ったようである。

「叙達(シュター)……いいかい」

その朝、石媽(シーマー)は、めずらしく思いつめたような顔をしていた。私は気にせぬふうをよそおい、骨を砕いて大鍋に入れた。

「ちょっとさあ……ねえ!」
語気があらい。よくよく見ると、からだを細かくふるわせている。

――なにか、訴えたいことでも、あるのか?

飛蝗(バッタ)は、はりついたように、戸口から離れようとしない。私は一計を案じて、少年に話しかけた。

「どうやら石媽(シーマー)は熱病のようだ。傷寒(しょうかん)かもしれない。ほうっておくと、漁門ぜんたいにひろがって、エライことになる」

「………」

「わしは、医療の心得があるゆえ、これから手当てをするけれど、この女がおちついたら、仕事に出る。そなたは、管姨(クァンイー)に報告しろ。石媽(シーマー)、さあ、塒へもどるぞ」

彼女のからだをささえるふりをしながら、耳打ちした。
「話があるのだろう? なるべく、よろよろと歩くのだ。熱病らしくな」

「……おどろいた。あんた男だねえ。見なおしたよ」
「他人に聞かれちゃ、まずいことかもしれんと思っただけだ。話をきこう」
「ありがと……たいした話じゃないんだけどね」

しばらくあって、ぽつりと言った。

「あたし、ここ、やめようと思うんだ。たしかに、給料は高いよ。四川ではたらくよりも、ずっと高い。でも、なんて言うかさあ、えたいがしれないんだよね。あたし、さいしょは、乳母としてやとわれたんだよ。だけど、入ってみたら『世話をたのもうと思った子どもが、死んでしまった』って、言うの」

「……その子は、殺されたのかもしれない」

「うん……あたしもそう思う。うすうす、変だと思ってたのよ。それに、みんな、妙によそよそしくてさ、ぜんぜん、しゃべらないじゃない? あそこまでしゃべらないと、ホント、不気味だよねえ」