「この患者さんは、皮下脂肪が多いから、苦労するかもな」
「CTで見る限り、血管は素直な走行だと思うんですけどね」
「開腹手術歴もあったよね」
「はい。帝王切開を2回、経験しています」
「じゃあ、お腹の中が癒着しているかもね。そういえば今度の学会発表の準備は進んでる?」
「情報はある程度集まったのですが、なかなかうまくまとまらなくて」
「そうか。今週、もう一度見せてくれる?」
「分かりました」

手洗いの時間に、軽い会話が交わされることが多い。これからの手術に関する専門的なこともあれば、世間話などの雑談であることも多い。

僕は血管の走行も学会のことも良く分かっていないため、手洗い中の会話には大概入れない。仕事がないのが辛いのと同様、会話に入れないのも辛い。

確かにその場に存在しているのに、無視されているように感じてしまう。仕方なく自分の手をきれいにすることに専念する。

手洗い、消毒を終えると手を胸の前に上げたままガウンを渡されるのを待つ。この時、指先が上を向くようにするのは、水滴が腕を伝って指先に流れてこないようにするためだ。指先はもっとも清潔に保たなければいけない。

「ガウンのサイズはどうしましょう」
「Lサイズでお願いします」

東国病院規模になるとガウンを着させてくれる看護助手さんがいる。それだけ手術がたくさん行われているということだ。

ガウンを受け取ると、おもて面を触らないように注意しながら腕を通す。あとは後ろの紐を助手さんに結んでもらうだけだ。

「手袋をお願いします」

最後に手袋をはめて装備が完成する。これでガウンに覆われた胴体と手袋に覆われた腕は清潔扱いとなり、頭や足、背中は不潔扱いとなる。ガウンと手袋で覆われた部分も、壁や人などに触れてしまうと不潔扱いとなり、手洗いからやり直しとなる。

装備が完成したら、器具やオイフ(手術中に患者の体全体を覆うカバー)など滅菌されたもの以外に触れてはいけない。もちろん自分の汗を拭ったりすることも厳禁だ。

※本記事は、2020年7月刊行の書籍『孤独な子ドクター』(幻冬舎メディアコンサルティング)より一部を抜粋し、再編集したものです。