見舞いに来た叔母が「澄世ちゃん、よう助かったなぁ。死ぬところやったんよ。澄世ちゃん、お花畑でも見た?」とニコニコしながら言った。のんきなこの叔母の言葉をきっかけに、澄世は思い沈むようになった。

(死ぬ? 死ぬって、どういうこと? この世界からいなくなるって……)

頭がグルグル同じ問いを繰り返し、澄世は気が沈んだ。退院して学校に復学したが、しょっちゅう酷い喘息発作を繰り返し、その度に富田外科へ駆け込み、入院をした。左耳の耳だれも止まらなかった。

富田先生が、大きいT病院へ紹介状を書いてくれ、そこの呼吸器内科へ行くとアレルギー検査を受け、減感作療法をするようにと、富田外科への手紙をもらった。耳鼻科では、左耳の鼓膜が完全に破れているので、すぐ手術をするようにと言われた。でも、鼓膜が破れなかったら、きっと脳炎になっていたので、幸いだったとも言われた。

澄世が怖がったので、手術は高校まで先延ばしにしてもらい、点耳薬をもらってしのぐ事になった。富田外科へは、毎週、減感作の注射に通った。

息がすぐ切れるので体育の時間は見学をした。運動会もずっと見学だった。五年生の冬には腰まわりにヘルペスを発病し、酷い痛みに耐え、正月明けまで長い入院をした。

中学へあがって、生理がはじまった。小児喘息だから治るかもしれないと言われていたように、生理がはじまった頃から、喘息の発作は減った。

だが、足の裏にアトピー性皮膚炎が出始め、皮が剥け、血がにじんで痛くて歩けなくなり、皮膚科でもらうテーピングで、何とか歩いて通学した。内向的な性格の澄世は出不精になり、一層内にこもるようになった。

好きだったピアノのレッスンにも行かなくなった。でも、元来ピアノが好きな澄世は、当時はやっていたリチャード・クレイダーマンの譜面を買い、「愛しのクリスティーヌ」や「渚のアデリーヌ」等の曲を、我流でよく弾き、自分の世界に浸っていた。

喘息も治ったわけではなく、生理の前になると、きまって喉がゼーゼーと喘鳴がし、呼吸が苦しくなり、酷い時は富田外科へ行って点滴を受けた。澄世は成績はいい方だったが、勉強にまるで関心がいかなかった。

それより、『いつか死ぬ』と言う事についてばかり考え、全く勉強をしなかった。あとから思えば、ノイローゼだったのだと思われる。

そのうち、『死ぬとは、生まれる前に還るだけのこと、怖くはない!』と一応の決着をつけた。十二歳の夏だった。

※本記事は、2018年9月刊行の書籍『薔薇のノクターン』(幻冬舎ルネッサンス新社)より一部を抜粋し、再編集したものです。