「ちょっとね、向かいの田んぼで面白い物を見つけたから、取りに行って来たんだよ」
年齢(とし)に似合わず、大きく元気な声を出し、手に持っている稲を掲げて見せた。

「どうだい?」
「ダメじゃないか。人の田んぼから、稲を盗ってくるなんて。怒られるだろ」
「大丈夫、大丈夫。怒られやしないよ。気にしなさんな」

酒米(さかまい)だろうか? 稲を見慣れない葉子には、そう見えた。山田錦ほどではないが、籾(もみ)が大粒だ。ただ、丈は低い。

「大粒だけど、酒米じゃないよ」
タミ子が、葉子の心の中を、見透かしたように言った。籾を割り、籾殻(もみがら)から玄米を外す。

「見てごらん」

殻の内側を、のぞくように促された。見てみると、籾の内側は、鮮やかなラベンダー色をしている。

「うわっ! きれい。こんな色、初めて見た!」
「あっちの田んぼの真ん中ら辺だけに、植わってるんだよ。変な田んぼだね、そこだけ違う稲を植えるなんてさ」

タミ子は、隣の田んぼを、あごでしゃくって見せた。女警察官の立つ農道とは、ちょうど反対側だ。間に幅一メートルほどの用水路が、流れている。そこに架かった小橋を渡って、稲穂を持って来たらしい。

葉子は、枯れ果てた稲と用水路の間のあぜに、違和感を感じた。よく見ると、大きな動物が引っかいたような跡がある。何だろうと考える間もなく、トオルがタミ子に、くってかかった。
「変なのは、あんただろ。わざわざ人の田んぼの真ん中行って、稲盗ってくるなんて。稲泥棒!」

タミ子は、楽しそうに笑うばかりで、どこ吹く風だ。立ち働く警官たちを、一瞥して言った。
「こんな騒ぎになってるんだ。稲穂の一本や二本、気にする奴なんて、どこにいるもんかね」

ムッとしつつも、泥棒の追求は諦めたらしい。トオルは苦笑いして、話をそらした。
「おっ、秀造さんが捕まってる」

視線の行く先を追うと、農道の上、さっきの女警察官たちの横に、見慣れた人影が立っていた。この田んぼの主、烏丸秀造だ。

烏丸酒造の十五代目蔵元は、葉子より一回りほど年上。中背でスリム、スタンドカラーの白い麻のシャツに、パンツは藍色。自然素材の服を着こなし、よく似合っている。なぜか、会うたび柳の木を思い出す。細くしなやかだが、芯に強靭さを秘めた感じがするのだ。

身振り手振りを交え、警官に状況を説明しているらしい。

烏丸酒造は、西暦千六百年代初頭、大阪の陣の頃の創業。つい先日、四百周年を祝う記念式典が行われたばかりだった。
神戸市内で行われた式典は、大盛況。知事はもちろん、東京からの招待客も、多数列席していた。元プロサッカー選手による乾杯があり、人間国宝の陶芸家の挨拶まであった。

葉子が、会場で特級田んぼの草取りをねだると、秀造は快諾してくれた。それが、こんな事件に遭遇しようとは。

※本記事は、2020年10月刊行の書籍『山田錦の身代金』(幻冬舎メディアコンサルティング)より一部を抜粋し、再編集したものです。