ラジオクラブでアマチュア無線の存在を知り、友達の内田君と一緒に熊本まで試験を受けに行きました。その日、水前寺公園の食堂で食べた親子どんぶりの美味しかったことは今でも忘れられません。

試験の結果は二人とも不合格でしたが、一年後に二人ともライセンスを取得することができました。この時からアマチュア無線が私の生涯の趣味になりました。

内田君と二人で、アメリカ軍用無線機の放出品やタクシー無線機のジャンク品を手に入れては、アマチュア無線に使えるように改造して楽しみました。

定時制高校は四時限制で、部活をして帰宅すると十時過ぎになってしまうこともありました。校門を出て駅前を通ると、途中に繁華街や飲み屋、当時はまだ赤線もありました。友達と自転車で走っているとお姉さんが店先に座り、夏はうちわを扇いで夕涼みをしながら、冷やかしの声をかけてきます。中には負けずに応戦する強者もいました。

残念なことに(?)私たちが卒業した前の年(一九五八年)に「売春防止法」が完全に施行され、赤線は廃止されました。私たちの年代から赤線の暖簾をくぐることはできなくなったのです。

定時制高校は四年間、蛍光灯の下で学びます。私たちのクラスは四十二名が卒業しました。中津東高等学校定時制の歴史で、卒業生が一番多かったのが私たちのクラスです。

時代背景もあると思いますが、全日制の生徒に負けない、向学心旺盛でまじめな生徒が多かったと思っています。卒業アルバムの寄せ書きの中央には担任の生田友則先生の「不退」の二文字がありました。

その時に先生からこの文字の意味は聞きませんでしたが、「何があっても前に進むんだ、後戻りするな」というメッセージだったと思います。

卒業後、同窓会で生田先生に、「不退」の文字が何か行き詰まった時など、折に触れ、私にとって心強い指針になっていると話したことがあります。先生はにこにこしながら、「そうかね、そのようにとってくれたら嬉しいね」と言ってくださいました。

時折、卒業アルバムを開くことがありますが、私は寄せ書きに「空気と光とそして友達の愛、それだけ残っていたら気を落とすことはない(ゲーテ)」と、歯の浮くようなキザなことを書いていました。

二、三年に一度同窓会を開いていますが、「東京オリンピックまでお互いに元気でいよう。そして二〇二〇年には東京で同窓会をやろう」と話し合っています。

※本記事は、2017年11月刊行の書籍『霧中の岐路でチャンスをつかめ』(幻冬舎ルネッサンス新社)より一部を抜粋し、再編集したものです。