第1章 本書の重要事項

重要事項11 先天(ア・プリオリ)と後天論争

知識や観念について、大陸合理論派のデカルト、スピノザ、ライプニッツらは生まれつき身に備わっているという先天説を、対して、イギリス経験論派のベーコン、ロック、バークリー、ヒュームらは生まれた後に身に備わるという後天説を主張しています。前出の重要事項09に記してある通りです。

ところで、「先天のあるなし」については「ある」と考えられます。それは、例えば、岸辺に産みつけられた卵からふ化したばかりの子亀が水辺に急行することや、生まれたばかりの哺乳類が母乳を求め、さなぎから変態した蝶が大空へ飛翔し生活活動を始めるなどから、少なくとも生命維持・存続に関わる本能などは先天であると考えられるからです。

然るに、知識や観念については何が先天か後天かの境目がはっきりしていないため冒頭のような論争が生じることになります。

今一つ、先天・後天について考えなければならないことがあります。それは、ある世代の経験である後天は、その世代限りで消滅し(その成果が書籍や記録で残ることはあっても)、その次の世代に備わる先天には一切加味されないのか、あるいは、部分か全部かは別にして何らかの形で加味されるのか、という問いのことです。

前者であれば、先天は不変であることになり、後者であれば、先天は世代ごとに移り変わることになります。

加味されない場合は、先天Aは最初の人間(アダムとイブとしましょう)にもそれからN世代後の今の我々にも全く変わることなく備わっていることになりますから先天の内容としては単純です。

対して、経験が次世代に備わる先天に加味されるということであれば、今の我々の先天は先天Aの上に、一代目であるアダムとイブの後天B(1)から我々N世代の一世代前の後天B(N-1)迄の和が合わさり(単純な和ではないのでしょうが)我々の先天として備わることになります。この場合、経験は一人一人違うことにより、B(1)からB(N-1)迄の和は同じではなく数多ということになりますから、今の我々一人一人の先天は異なることになります。