ただ、18世紀のイギリスの哲学者ヒュームは、「AはBの原因である」という言い方は、「Aの後には、これまで調べた時には必ずBがあった」と言っているにすぎないと論じています。(数学者の無神論 J.A.パウロス著 松浦俊輔訳 青土社 2008年)つまり、「AはBの原因である」ということはゆるぎない概念・知識ではないということです。

このことについては、気をつけなければなりませんが、これは一旦横に置き、我々の知識は上記のようなことで形成され、我々はそれにより何々を知っている、理解している、と思っていることになります。

さて、このようにして形成される知識によって我々は一体何を理解したことになるのでしょうか。それは、世界(宇宙)そのものやその中で起こっている現象について「それらはそのようにある」ということが、ゆるぎなくではなく、そこそこにわかったにすぎないことになります。

ましてや、「なぜ、それらはそのようにあるのか?」とか「そのようにないのはなぜか?」ということについては、今のところ、全く理解の外にあるということです。

この宇宙に関わることさえ良くわかっていないのですから、この宇宙を越えることなど全くわからないのは道理です。つまり不可解なのです。

然るに、ここに我々人間がそう定義した「全知全能にして完全な系」としての神を持ちこんでも、我々人間にとって、この不可解状態が何らかの改善を見ることにはなりません。そのような属性の神にはわかっていることであっても、人間には「わからないこと」はそのままにあることに変わりはないからです。

帰納法と演繹法

正しい知識を持つためには、前述のイギリス経験論を推す哲学者たちは帰納法が有効と考え、大陸合理論を推す哲学者たちは演繹法が有効と考えています。帰納法とは、経験(実験や観測)により多くのサンプルを集めそれから一般論を導き出す手法であり、演繹法とは、一般的な原理から理性的な推理によって、個物の真理を突き止める手法です。

然るに、この議論も不毛です。なぜなら、知識の増大という視点に立てば、帰納法と演繹法はそれを推進する二輪車の両輪で、互いに補い合って知識の増大に貢献しているからです。どちらが欠けても知識の取得・増大は著しく阻害されます。つまり、どちらが優れているとか大事かという問題ではないということです。

帰納法が発見した知識(一般的な原理)を拡大発展させることは演繹法の力ですが、この場合帰納法の発見がなければ、演繹法の真なる前提が存在しないことになり演繹法の出る幕はありません。対して、演繹法によらなければ、帰納法の発見は知識の更なる形成という視点からはその先へ向かって飛躍的に拡大発展することはありません。

双方の手法がうまく噛み合ってこそ知識は増大して行くことになります。

※本記事は、2020年9月刊行の書籍『神からの自立』(幻冬舎メディアコンサルティング)より一部を抜粋し、再編集したものです。