日曜日も洗濯機を回しながら、部屋でぼんやりとしていた。私は男を信用していなかった。だから近づかないよう、近づかれないようにしてきた。周りからは美人とレッテルを貼られていたが、全くもてなかったし、もてたいとも思っていなかった。

こんなになったのは父のせいだと思っている。身勝手で、でたらめな生き方をして周りを振り回した父。

昭和四年に大きな農家に生まれ、戦後のどさくさの農地解放のせいで、大学へ進学させてもらえず、広い田畑を守るために農業を継がされた。その事をずっと呪って生きている。結局、農業の衰退で、友人と製油会社を始めたものの、うまくいかず、辞めた。

続いて、商売がしたいと帽子屋を始めたが、客がつかず、それも辞めた。知り合いの口利きで、病院の事務を始めたが、勤めは嫌だと言って、ふた月もせずに辞めた。そのあと八尾に工場を建て、大手家電メーカーの下請けを始めた。十人ほど人を雇って細々と経営をし、これが何とか続いている。

二度離婚していて、私の母は三度目の妻だった。二度の離婚は、父の方が気に入らなくて別れたらしいが、三人目の母とも、いつも言い争いが絶えなかった。私の母が父と結婚したのは、父が病院勤めをしていた時だった。だが、子供ができたと思ったら、夫が失業し、不安でいっぱいになったと聞いた。何とか工場経営を始めてくれたが、毎日愚痴ばかりで、けんかになるらしかった。

「俺は勉強ができたんだ! 旧制中学の優秀組にいたんだ! 大学にさえ行っていれば、こんなもんじゃなかったんだ! マッカーサーの野郎のせいで、十六で百姓になったんだ!」と、事あるごとに同じ話を繰り返した。

幼い私は、毎日のように繰り返される両親の夫婦げんかにビクビクし、母につかみかかろうとする父の足を、小さな手で引っぱったり、泣きながらけなげにも仲裁をやり続けた。

私は淋しい子供だった。両親にかまってもらえず、外で遊びもせず、いつも部屋の片隅で息を殺して、両親の機嫌をうかがっていた。