三月三日(木)晴

「カズちゃん」と、母が私を間違えて呼んだ。これは言葉の錯語(さくご)か、それとも認知の錯誤か、いずれにしても脳腫瘍ないし失語症のなせるもの……。

初めての事に少しショックを受けながらも、「カズちゃんじゃないよ、アキヒコだよ」と、何くわぬふりで答えると、「口がきけないってことは、悲しいことだね。急にこんなんなって、ごめんね……」と、母が詫びた。

それから、「青い、月夜の、浜辺には……」と、歌の歌詞を見ながら大好きな「浜千鳥」を歌おうとしたが、全く節にならず、「せつないよ」と、ぽつり呟く。

母の背中をさすりながら話をした……。

「時々、夢を見ているような感じになる事があるでしょ。俺は子供の時にね、辛い悲しい事があると、『これは夢なんだ』って思うようにしていた。

空の大きな雲の上には巨人が住んでいて、これは巨人が眠って見ている夢なんだ、自分が現実だと思っている今は、実は夢の中なんだって思うんだよ。

夢であればいつか覚める、そうすれば悲しいも辛いも無い、本当の現実の世界に戻れる。フカフカの雲の上にある現実の世界ってのは、どんなにか素晴らしいだろうかって……。半ば本気で、そう思っていた。お母さんも想像してみてごらん……。

少し時間がたてば、この不安は必ず落ち着く。心配も恐怖も何でもなくなってしまうんだから。何も全身を震わせて訴えなければいけない事なんてないんだよ。自分が苦しいだけでしょ。喋れないって事は切ないけど、太刀川さんも手紙で言ってたように、『言葉が出なければ他の方法を見つけて』って、例えば『はい・いいえ』だけでも左手で出来るようにすれば、ずっと楽になると思うよ」

わかっちゃいるが、それが簡単にできりゃ苦労はない……と、いうことだ。

※本記事は、2020年7月刊行の書籍『ありがとうをもう一度』(幻冬舎メディアコンサルティング)より一部を抜粋し、再編集したものです。