「じつは奥さんも、あなたになにやら頼みたいことがあるようなんです」
「えっ、奥さまが、ですか」
「そうです。どうされます?」

「そうですね。どういうことなのかよくわかりませんが、わたしには断る理由はありませんし、断るわけにはいかないでしょう」

「ではこちらの連絡先を教えてもよろしいでしょうか」
「ええ、それはかまいませんが」

松岡はまた部屋の隅に行ってなにやら話していたが、沙也香の前に戻ってくると、今度はソファーに腰を下ろさず、

「わたしがお尋ねしたかった用件は済みましたので、今日はこれで失礼します」

といいながら足早に玄関に向かい、靴を履くと、一礼して出ていった。

沙也香はその後ろ姿を見送ると、リビングに戻り、ソファーに座って大きく息をついた。何日も夢中で仕事をしたように、なんだか心も身体も疲れきってぼろぼろになってしまったような気がする。

─いったい、なんという一日だったのだろう。

そのまま寝てしまいたいほど心身ともに疲れ果てていたが、頭の芯のどこかが妙に冴えていて、脳に鋭い刺激を与え、興奮させているようだ。彼女はまた大きく息を吐くと、そのままソファーに寝転び、目を見開いて天井を見上げた。

すると、松岡の最後にいった言葉がよみがえってきた。高槻夫人が、沙也香になにか頼みたいことがあるといっているらしい。いったいどんなことを頼みたいというのだろうか。いいえ、それ以前に、高槻教授の頼みとはどんなことだったのだろう。

いくら考えてみても見当がつかない。また高槻夫人に対しては、理屈ではいいようのない罪悪感じみた後ろめたさのような想いがあり、それが心をぎゅっと締めつけ、苦しめている。いろんな想像が雲のように湧き上がっては消えてゆき、そんな妄想にさいなまれ翻ほん弄ろうされているうちに、いつしか重く暗い空間へと引きずり込まれていった。

 
※本記事は、2018年9月刊行の書籍『日出る国の天子』(幻冬舎ルネッサンス新社)より一部を抜粋し、再編集したものです。