謎多き天才が残した一枚の絵画をめぐる、
超大作アート・ミステリー。
写真家の宗像は、偶然訪れたロンドンの画廊で、一枚の肖像画に心を奪われる。絵画の名は、夭折した謎多き天才画家ピエトロ・フェラーラの「緋色を背景にする女の肖像」。フェラーラの足跡を追い求めてたどり着いたポルトガルの地で、宗像は美術界を揺るがす秘密に迫っていた。美術界と建築界に燻るスキャンダル。その深部と絵の謎が交錯していく。アートに翻弄された人々の光と影を描き出す、壮大なミステリードラマを連載でお届けします。
宗像はスロープを下り始めていたので、目線より上の状況に気づかなかった。ターバイン・ホールを水平に横切るブリッジの中央で盛んに手を振る男がいる。仰ぎ見ると、概ね三十メートルほど先になるだろうか、それは確かに心地だった。
「ここに上がってこいよ。左側にエスカレーターがある」
心地の声はいつものように快活で切れが良い。宗像はエスカレーターに乗り、右に曲がってブリッジの中央に行き着いた。
「久しぶりだ。心地、いつも変わらないな」
「何だその変わらないというのは。ところで仕事はどうだ? うまくいっているか?」
「やっとこさ食べている」
「ところで今回は何をしに来たんだ?」
「いや、特別に何というわけでもない。久しぶりに仕事が切れたので、二週間ほどポルトガルにでもとな」
「ポルトガルか? あそこは何もないところだ。退屈するぞ。いや失敬失敬、それが作品になるのがお前の仕事だったな、アッハッハ。ところで日本では何か耳寄りな話はないか?」
「うん、特別なことは何もな……いや、そうだ、こんなことがあったよ。出発前に磯原さんが《昴》に顔を出してね、会ったよ。最近、先生はルッシュ現代美術館国際建築設計コンペとやらの審査委員長をやったらしいぞ。ほら、チューリッヒ湖畔に建てるどでかい美術館だ。建築雑誌を見せられて一等案についての感想を求められたよ」
「ルッシュだな? こちらでも大きい話題になっているよ。何しろ世界最大の現代美術館だからな。金に糸目をつけず集めた作品は五万点をくだらないという噂だ。まあ話半分としても凄いものだ。それに今回は、何しろイギリス人が優勝したものだから、ちょっとした騒ぎだよ。グラスゴーの、だいぶ年をとっているようだが、何て言ったか? 無名の建築家らしいな」
「ピーター・オーターという建築家だ。建築のことは分からんが、パースというのか、表現の変わった挿絵が図面のあちこちに描かれていた。磯原さん曰く、それがみなコンピューター・グラフィックスを使い、一見手描き風の絵のように見せる手法を使ったらしいぞ」
※本記事は、2020年8月刊行の書籍『緋色を背景にする女の肖像』(幻冬舎メディアコンサルティング)より一部を抜粋し、再編集したものです。
【登場人物】
宗像 俊介:主人公、写真家、芸術全般に造詣が深い。一九五五年生まれ、46歳
磯原 錬三:世界的に著名な建築家一九二九年生、72歳
心地 顕:ロンドンで活躍する美術評論家、宗像とは大学の同級生、46歳
ピエトロ・フェラーラ:ミステリアスな“緋色を背景にする女の肖像”の絵を26点描き残し夭折したイタリアの天才画家。一九三四年生まれ
アンナ・フェラーラ:ピエトロ・フェラーラーの妻、絵のモデルになった絶世の美人。一九三七年生まれ、64歳
ユーラ・フェラーラ:ピエトロ・フェラーラの娘、7歳の時サルデーニャで亡くなる。一九六三年生まれ
ミッシェル・アンドレ:イギリス美術評論界の長老評論家。一九二七年生まれ、74歳
コジモ・エステ:《エステ画廊》社長、急死した《ロイド財団》会長の親友。一九三一年生まれ、70歳
エドワード・ヴォーン:コジモの親友で《ロイド財団》の会長。一九三〇年生まれ、71歳
エリザベス・ヴォーン:同右娘、グラフィックデザイナー。一九六五年生まれ、36歳
ヴィクトワール・ルッシュ:大財閥の会長、ルッシュ現代美術館の創設者。一九二六年生まれ、75歳
ピーター・オーター:ルッシュ現代美術館設計コンペ一等当選建築家。一九三四年生まれ、67歳
ソフィー・オーター:ピーター・オーターの妻、アイリーンの母。
アイリーン・レガット:ピーター・オーターの娘、ニューヨークの建築家ウィリアム・レガットの妻。38歳
ウィリアム・レガット:ニューヨークでAURを主催する建築家。一九五八年生まれ、43歳
メリー・モーニントン:ナショナルギャラリー美術資料専門委員。一九六六年生まれ、35歳
A・ハウエル:リスボンに住む女流画家
蒼井 哉:本郷の骨董店《蟄居堂》の店主
ミン夫人:ハンブルグに住む大富豪
イーゴール・ソレモフ:競売でフェラーラの絵を落札したバーゼルの謎の美術商