宗像はスロープを下り始めていたので、目線より上の状況に気づかなかった。ターバイン・ホールを水平に横切るブリッジの中央で盛んに手を振る男がいる。仰ぎ見ると、概ね三十メートルほど先になるだろうか、それは確かに心地だった。

「ここに上がってこいよ。左側にエスカレーターがある」

心地の声はいつものように快活で切れが良い。宗像はエスカレーターに乗り、右に曲がってブリッジの中央に行き着いた。

「久しぶりだ。心地、いつも変わらないな」
「何だその変わらないというのは。ところで仕事はどうだ? うまくいっているか?」
「やっとこさ食べている」
「ところで今回は何をしに来たんだ?」

「いや、特別に何というわけでもない。久しぶりに仕事が切れたので、二週間ほどポルトガルにでもとな」

「ポルトガルか? あそこは何もないところだ。退屈するぞ。いや失敬失敬、それが作品になるのがお前の仕事だったな、アッハッハ。ところで日本では何か耳寄りな話はないか?」

「うん、特別なことは何もな……いや、そうだ、こんなことがあったよ。出発前に磯原さんが《昴》に顔を出してね、会ったよ。最近、先生はルッシュ現代美術館国際建築設計コンペとやらの審査委員長をやったらしいぞ。ほら、チューリッヒ湖畔に建てるどでかい美術館だ。建築雑誌を見せられて一等案についての感想を求められたよ」

「ルッシュだな? こちらでも大きい話題になっているよ。何しろ世界最大の現代美術館だからな。金に糸目をつけず集めた作品は五万点をくだらないという噂だ。まあ話半分としても凄いものだ。それに今回は、何しろイギリス人が優勝したものだから、ちょっとした騒ぎだよ。グラスゴーの、だいぶ年をとっているようだが、何て言ったか? 無名の建築家らしいな」

「ピーター・オーターという建築家だ。建築のことは分からんが、パースというのか、表現の変わった挿絵が図面のあちこちに描かれていた。磯原さん曰く、それがみなコンピューター・グラフィックスを使い、一見手描き風の絵のように見せる手法を使ったらしいぞ」

※本記事は、2020年8月刊行の書籍『緋色を背景にする女の肖像』(幻冬舎ルネッサンス新社)より一部を抜粋し、再編集したものです。