水曜日の午後六時半に、梅田(うめだ)で待ち合わせをし、二人はまた食事を一緒にした。天地の行きつけの寿司屋で、九時まで話し続けた。優子はどんな話を聞くにも、天地と真っすぐに視線を合わせ、大きな瞳でしっかりと見つめた。わからない事は素直に質問をし、天地は優子にわかるように、易しく説明をした。二人の距離は急速に縮まった。

家まで送ると、真弓が出て来て、天地に家に入るようにと言った。天地は素直に応じ、家にあがり、応接室に通された。優子が子供の頃に習って弾いていたピアノがあった。達雄が愛した古いステレオもあり、上質の落ち着いたしつらえの部屋だった。えんじ色のビロードのソファーに、天地は勧められるままに座った。

「天地先生。本当に色々とお世話になって、ありがとうございました。その上、優子とお付き合い下さるなんて、夢みたいにうれしくて、ありがとうございます」と、真弓は礼を言った。

「いえ。お力になれて、僕もうれしいです」と、天地が言った。

台所で紅茶を入れ、それを盆にのせた優子が部屋に入って来た。

「どうぞ」と言い、優子は紅茶のカップを天地の前にそっと置いた。
「ありがとう。どうぞお構いなく」と、天地は言った。

「世間知らずな娘ですが、どうぞよろしくお願いします」と、真弓が言うや否や、天地が口を開いた。

「僕をご信頼下さって、ありがとうございます。優子さんとは、結婚を前提に交際させて頂きたく、お願いします」

優子は驚いて目を見開いた。

「大切にお育てになられた素晴らしいお嬢さんです。出逢って間もなくて、驚かれるかもしれませんが、僕は優子さんを愛しています。それを、お母さんにご理解頂き、お許しを頂きたく、お願いします」

天地は揺るぎない想いをハッキリと宣言した。真弓の顔が見る見る明るくなった。

「天地さん。こちらこそ、どうぞよろしくお願い致します」と、真弓は深く頭をさげた。

「お母さん。どうぞ、頭をお上げ下さい。お許し下さって、ありがとうございます。優子さんは大変デリケートな方でいらっしゃり、ご病気の事も、柚木から聞いておりますので、結婚まで純潔を守る事をお約束します」

天地は強い意志を込めた目をして、真弓と優子に言った。

「この子の事を、そこまでご理解下さっている方に、何も言う事はありません。どうか、よろしくお願いします」と、真弓は涙声で言った。

「ありがとうございます。女所帯で、何かとお困りの事もおありでしょう。これからは何なりと、僕に言って下さい。できる限り、お力になります」

天地は尚、力を込めて言った。優子はただ、恥ずかしそうにうつむいていた。

「では」と言い、天地が立ちあがった。優子は母と一緒に、門まで天地を見送った。天地はうれしそうにお辞儀をして、帰って行った。

天地が帰ったあと、優子が応接室の紅茶のカップを片づけていると、真弓はソファーにもたれ、晴れ晴れとした顔で言った。

「優子ちゃん。お母さん、とってもうれしいわ。貴女は本当に幸せになれるわ! お父さんも、きっと喜んで見守って下さっているわ。良かったわね」

優子は母に微笑んでから、盆を持って台所へ行った。洗い物をして、二階の自室に入った。ドレッサーの椅子に座り、鏡に映る自分の顔を見て、微笑んでみた。「幸せ?」そう自分に言ってみてから、何故かわからないが、ふと不安に襲われた。自分は天地を愛しているはずだ……なのに、胸の中を冷たい風が吹きぬけたような、不安がある。何なのだろう? そう思った次の瞬間に、息が苦しくなってきた。優子は慌てて、ベッドの横のテーブルまで行き、頓服薬を出して水で飲んだ。

※本記事は、2020年4月刊行の書籍『追憶の光』(幻冬舎メディアコンサルティング)より一部を抜粋し、再編集したものです。