第一話

 

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そんな時、急遽(きゅうきょ)、イギリスへ2か月余り、語学研修をする生徒の引率を行うことになり、毎週、各生徒の生活学習状況をスナップ写真入りで作成し、各家庭に配信していた。

また、花咲徳栄の女子硬式野球部はヴィーナス・リーグと呼ばれる関東女子硬式野球連盟によるリーグ戦を行っており、毎試合の結果や内容がイギリスの語学学校にメールで届いていた。

そして、ヴィーナス・リーグの最終戦、甲子園出場監督である秋元(あきもと)名監督率いる蒲田女子高校との試合は雨天の中で行われ、大差で花咲徳栄は負けていた。

最後のバッターは高島であった。

高島の打球はピッチャーゴロだったが、ぬかるんで足を滑らすようなグラウンドを全力で走り、一塁ベースにヘッドスライディングを敢行。

ユニフォームや顔が泥だらけになり、泣きながら試合終了後の整列をしたことがメールで届けられていた。

すぐに返信をし、

高島知美 様

普段からいっている。ピッチャーゴロでも全力で走れる野球を目指せ。

そのことをあなたは実行しました。このことがいつか必ず日本一に

結びつくと思います。頑張って下さい。                             

濱本光治

と、遙か彼方(かなた)のイギリスから目に涙をにじませながらメッセージを送った。

イギリスに行く前に私は、2001(平成13)年に就任以来、気になっていたことを解決したいと思った。それは、女子硬式野球部のグラウンドは水はけも悪く、しかも部室もなく男子野球部や女子ソフトボール部のゴミや廃材がグラウンド側に置かれ、あまりにも野球をする環境ではなかったことを改めることだった。

学園の佐藤理事長に改善を嘆願(たんがん)した。許されて、私は防球ネット、夜間照明、簡易ダッグアウトを設計してからイギリスに赴いた。イギリス滞在中に工事が入り、帰国後やっと野球ができる環境が整いつつあった。

2005(平成17)年の夏の全国大会は、またしても初戦で敗退した。

──どうせやるなら 井戸を掘るなら水が出るまで掘れ。

負けてばかりで周囲の風当たりは強いが、旗は風が強ければ強いほど美しく翻(ひるがえ)る。決して、決して諦(あきら)めることなく頑張るしかないな。

夏の全国大会後、新チームとなり高島新キャプテンが誕生した。

持ち前の一生懸命さとひたむきの努力をする姿勢でチームを牽引(けんいん)していた。

花咲の冬は「赤城(あかぎ)おろし」という群馬県の赤城山からの強風がしょっちゅう吹くところで、寒さと砂塵(さじん)にまみれた中での練習を余儀なくされた。そんな中、私が公務のため練習に出られない時に、職員室において砂埃(すなぼこり)によって鼻の穴や耳の中を真っ黒にして練習終了の報告を生徒たちがしたことがあった。

この時、私は彼女たちの真っ黒クロスケの顔を見て、来年の選抜大会に初優勝できる手応えを感じていた。

──日本一はできる。近いぞ。

2006年正月、手応えを感じた私は、

──人事(じんじ)を尽くして天命(てんめい)を待つ。

チーム事情はレギュラーメンバーのうち、硬式経験者は3人、残りはバスケットボール部、陸上駅伝部、ソフトボール部、軟式野球部の未経験者ではあったが、バッテリーを中心としたショート、セカンド、センターの中心線は守りが堅く、4番高島を中心とした打線もパンチ力があり、さらに足やバントを絡めての細かい野球ができるようになり、日々の練習にも熱が入っていた。

そこで私は、この時には花咲徳栄高校をこころから応援し、初代女子硬式野球部保護者会長に就任していた高島の父親に初優勝祈願を申し出た。

すると、

「先生、近所にいいお寺がありますので、そこへ案内しますよ」

とのことで、その寺へ新年早々行き、初優勝の祈願をし、その際にいただいたお札を部室に奉(まつ)った。

※本記事は、2017年2月刊行の書籍『女子硬式野球物語 サクラ咲ク1』(幻冬舎ルネッサンス新社)より一部を抜粋し、再編集したものです。