第一話

 

2

 

花咲徳栄高校の総合グラウンドの南側に植え込まれた桜が満開になった明くる年の4月に高島は入学してきた。

すぐに私はミーティングを開き、以前、男子野球部の監督をしていた時に自分の考えをまとめたものを再度、ベースボールテキストとして作成し、女子硬式野球部員にも伝えようとしていた。

教室で、資料を数十枚印刷し、冊子に綴(と)じる作業をしている時であった。

紙の数え方、冊子の綴じ方を見ていると、高島以外の部員はスムーズに作業が終えるのだが、高島だけは明らかにスピードがなくぎこちない手つきなのである。

──この子は、器用ではなく、不器用な子なんだ。でも不器用な人間ほど、すぐに何事もできないから、こつこつと努力をして、つかんだ技術は本物になるんだな。逆に楽しみだね。

逆は真なり。

と、こころの中でつぶやいていた。

加須市・騎西(きさい)にある樹齢400年といわれる紫色の藤棚(ふじだな)が見事に垂れ下がる5月。いつものように教室でミーティングを行っていた。

「今日は『光陰(こういん)矢の如し』の話と『部訓』の話をします。

みんなは宇宙カレンダーというものを知っていますか。

これはアメリカのコーネル大学のカール・セーガン教授が、考えたものなんだよ。

宇宙の始まりはビッグバンだといわれているね。

そのビッグバンから現在までの130億年を1年間に表したカレンダーなんだ。

そうすると、人類が誕生して400万年、600万年といわれていますが、

その人類発祥が、宇宙カレンダーでは何月何日の何時何分になると思う」

「?……」

「なんと、12月31日の午後10時30分なんだって。

ということは、人類がアフリカで誕生してから宇宙カレンダーではたった1時間半なんだよ。

ということは、現在人生80年なんて、本当に一瞬だよ。

だから、普段の練習時間なんて、分かるだろう」

と、練習時間の大切さを訴えていた。

「そして、うちのクラブの部訓は『すべてに感謝』です。

いいですか。こそ精神というのがあります。親がいればこそ、学校に通える。

平和だからこそ、野球ができる。

ファウルグラウンドがあればこそ、フェアグラウンドがある。

レギュラーだけでなく、補欠の選手がいればこそ、チームが成り立つ。

このこそ精神を大切にして、あらゆることに、

すべてのことに感謝してほしいという願いを込めて、

部訓を『すべてに感謝』としました」

「最後に、魔法の言葉を教えて、今日のミーティングを終わります。

それは『ありがとうございます』『感謝します』という二つの言葉です。

特に、良いことがあった時に『ありがとうございます』ではなく、

逆に悪い時にこそ『ありがとうございます』といってごらん。

そうすると、挫折や失敗の悪い連鎖が切れて不思議と良いことが起こるんだよ。

そして、良いことがあった時に『感謝します』と謙虚な気持ちになれる人になって下さい。

野球をする前に、良い人間性を持って下さいね。

野球は人間がしますから、必ずその人間性が現れるのが野球です」

と、難しい話を無理矢理聞かせていた。

 

3

ピンクやブルーのあじさいが鮮やかに咲き誇った梅雨入り後、次々とG・N・O・K(義理・人情・恩返し・感謝)の人たちが、亡くなられた。

──花咲徳栄高校初代校長 佐藤照子(てるこ)。

2004年5月の連休中に自宅で倒れられ、緊急入院。

6月に入っても意識が戻らず、夫である佐藤栄太郎理事長が、

「お母さんはもう先は短いから、花咲の一期の先生方で見舞いに行きなさい」

といわれ、創設時に30名いた教職員のうちで、残り続けた8名の一期職員で病室を見舞った。

病室に入ると経管で治療をされていた佐藤校長が横たわっており、職員一人一人が佐藤校長のお顔を見ながら思い出話をしていた。

数十分が過ぎたであろうか、退出する前に私は、最後の別れをしようと校長の左手を私の両手で包み込むように握り、

「校長先生、本当にお世話になりました。ありがとうございます。僕が今、教師になれたのは校長先生のお陰です」

と、こころの中で最後の言葉を述べた。

思えば、花咲徳栄高校開校の際、佐藤照子校長から、

「今度、埼玉県の加須市に佐藤栄(さとえ)学園の3番目の高校ができるの。

濱本先生、私と一緒に骨を埋(うず)めるつもりで来てくれない」

と、お誘いを受けていた。

その後、佐藤理事長から、

「濱本、実は学園の教員採用試験の時、面接で、副校長(当時は埼玉栄高校副校長)以外は全員、お前のことは生徒に悪影響を与える人物という理由で不合格だったんだ。

それを副校長が今どき、自分でアルバイトをして貯めたお金で、海外に旅に出るような自立した学生はいないので、保証人になりますから合格にして下さいといったんだよ」

私は採用試験の面接時には、貧乏でリクルートスーツなるものは買えず、大学時代ずっと着ていた硬派を印象づけるような学ランを着て、襟(えり)には部のバッジを誇らしげに着け、若気(わかげ)の至りで、卒業論文「フーテン・ヨーロッパ紀行」に対する面接官からの質問に対して、自信過剰でツッパリのような熱弁を奮(ふる)いながらでの受け答えをしていたのだから無理もない話ではあった。

数日後──。

私はこの話を聞いて、改めて花咲徳栄高校着任を了承し、骨を埋める覚悟ができていた。

「校長先生、よろしくお願いします」

「採用試験の時、あなたには人が持っていない、人にはないものがあると思ったの」

と、優しいまなざしで私に語っていた。

このひと言は、私にとって生涯を通じてのこころの支えとなっていた。

すると、意識不明の状態ではあったが、なんと血圧計のデジタル表示が急に反応し、不思議なことに数値が上がり、みんなが「ちゃん、何をしたの」といっていたが、その場をごまかし病室を退出した。

お見舞いをした数週間後、佐藤照子校長が逝去(せいきょ)された。

葬儀における最後の出棺(しゅっかん)の際、

「誰かお母さんの棺を霊柩(れいきゅう)車まで運んでくれないか」

と、夫である佐藤理事長がいわれ、

私はすぐさま棺桶(かんおけ)の右側の後部を持ち、霊柩車に移した。

霊柩車の後部のドアが閉まり、

「ファン……」

という悲しいクラクションの音とともに霊柩車が火葬場に行くのを見送り、静かに合掌をしていた。

生前、佐藤照子校長が残された言葉が今も胸に染みる。

人は宝の理想に生きて

私は生かされながら

常に今日との出会いに学び

目覚めの朝のよろこびに

幸福の世界を想います

天からの豊かなメッセージに

私の胸は熱く燃え

この命を精一杯生きるとき

生かされていることを感謝し

真の幸せを感じます

平成十六年 初夏     佐藤照子

倒れられる直前に、なぜかこの文章を残され、無病息災(むびょうそくさい)ではなく、一病息災の病を抱えられながら、懸命に日々生きられたのであった。

亡くなられた佐藤校長は、花咲徳栄に勤務される前に、校内にある瞑想(めいそう)の森に建立(こんりゅう)されている聖観世音菩薩像(しょうかんぜおんぼさつぞう)にその日の生徒の安全や学業成就(じょうじゅ)を祈願されて職員室に入室されていた。

校長亡きあとはそれを行う人がいなかったため、私はせめて3年間は続けようと誓い、雨の日も、雪の日も勤務をした日は、一日も欠かさず瞑想の森に行き、故佐藤照子校長の代行を行っていた。

同年10月、女子高野連初代事務局長の四津浩平さんが急逝(きゅうせい)された。

私にとってはこのお二方は女子硬式野球の大恩人であり、今後の女子硬式野球発展の双そう璧へきでもあった。

しばらく、こころの支えを失った私は虚脱状態であった。

※本記事は、2017年2月刊行の書籍『女子硬式野球物語 サクラ咲ク1』(幻冬舎ルネッサンス新社)より一部を抜粋し、再編集したものです。