謎多き天才が残した一枚の絵画をめぐる、
超大作アート・ミステリー。
写真家の宗像は、偶然訪れたロンドンの画廊で、一枚の肖像画に心を奪われる。絵画の名は、夭折した謎多き天才画家ピエトロ・フェラーラの「緋色を背景にする女の肖像」。フェラーラの足跡を追い求めてたどり着いたポルトガルの地で、宗像は美術界を揺るがす秘密に迫っていた。美術界と建築界に燻るスキャンダル。その深部と絵の謎が交錯していく。アートに翻弄された人々の光と影を描き出す、壮大なミステリードラマを連載でお届けします。
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新進気鋭と騒がれ、数々の賞を独り占めし、絶頂期にあった宗像が、突然周囲の期待を裏切って、それまでの夥しい仕事を減らして平易な気持ちで生きていく道を選んだことは、この理由と無関係ではなかった。
当時、納得できる仕事を厳選し、丁寧な仕事をする写真家という評価は、宗像に期待を寄せる周囲の人たちの温かい眼差しから出た気持ちの表れだった。
宗像はこうも考えた。テート・モダンで心地に会うのなら、この絵について尋ねてみよう。彼ならば何かが分かるだろう。たとえフェラーラが何者か分からずとも、また、彼がそれほど有名な画家ではなかったとしても、この絵はなかなか個性的だし、なによりも気に入っていた。
それに心地と批評し合うのも一興ではないか。しかしコジモ・エステと名乗るこの老人は、サインは裏側にあるというような、すぐばれる嘘をなぜついたのだろうか? 宗像はエステ氏に向き直って尋ねた。
「フェラーラの他の絵をお持ちですか?」
エステ氏は四号ほどの小さいものですがと言いながら、パステル画のプリントを持ち出してきた。やはりフェラーラの素描画だと言う。それは茶系統のコンテでサラッと描かれた、またもやあの美しい女の横顔である。
「それではこの絵をつけて五百ポンドにしてもらいたい」
宗像は新たな指し値をした。
「そ、それでは酷過ぎます。商売になりません。何とか五百五十ポンドで手を打ってはいただけませんかな?」
エステ氏は身をくねらせ、いかにも困ったという顔つきになって答えた。宗像は何が酷いものかと思いつつも、結局プリント二点がこの値段でまとまった。
「いやいや、まことに申し訳なかった。確か裏にサインがあったと記憶していたのだがね。はて、それでは別の絵だったかな? それで、というわけでもありませんが、お詫びのしるしに何か一つ……。いやなに、べつに大したものではありませんがね。ところで、あんた、確か、これからポルトガルに行くと言ってましたな?」
【登場人物】
宗像 俊介:主人公、写真家、芸術全般に造詣が深い。一九五五年生まれ、46歳
磯原 錬三:世界的に著名な建築家一九二九年生、72歳
心地 顕:ロンドンで活躍する美術評論家、宗像とは大学の同級生、46歳
ピエトロ・フェラーラ:ミステリアスな“緋色を背景にする女の肖像”の絵を26点描き残し夭折したイタリアの天才画家。一九三四年生まれ
アンナ・フェラーラ:ピエトロ・フェラーラーの妻、絵のモデルになった絶世の美人。一九三七年生まれ、64歳
ユーラ・フェラーラ:ピエトロ・フェラーラの娘、7歳の時サルデーニャで亡くなる。一九六三年生まれ
ミッシェル・アンドレ:イギリス美術評論界の長老評論家。一九二七年生まれ、74歳
コジモ・エステ:《エステ画廊》社長、急死した《ロイド財団》会長の親友。一九三一年生まれ、70歳
エドワード・ヴォーン:コジモの親友で《ロイド財団》の会長。一九三〇年生まれ、71歳
エリザベス・ヴォーン:同右娘、グラフィックデザイナー。一九六五年生まれ、36歳
ヴィクトワール・ルッシュ:大財閥の会長、ルッシュ現代美術館の創設者。一九二六年生まれ、75歳
ピーター・オーター:ルッシュ現代美術館設計コンペ一等当選建築家。一九三四年生まれ、67歳
ソフィー・オーター:ピーター・オーターの妻、アイリーンの母。
アイリーン・レガット:ピーター・オーターの娘、ニューヨークの建築家ウィリアム・レガットの妻。38歳
ウィリアム・レガット:ニューヨークでAURを主催する建築家。一九五八年生まれ、43歳
メリー・モーニントン:ナショナルギャラリー美術資料専門委員。一九六六年生まれ、35歳
A・ハウエル:リスボンに住む女流画家
蒼井 哉:本郷の骨董店《蟄居堂》の店主
ミン夫人:ハンブルグに住む大富豪
イーゴール・ソレモフ:競売でフェラーラの絵を落札したバーゼルの謎の美術商