謎多き天才が残した一枚の絵画をめぐる、
超大作アート・ミステリー。
写真家の宗像は、偶然訪れたロンドンの画廊で、一枚の肖像画に心を奪われる。絵画の名は、夭折した謎多き天才画家ピエトロ・フェラーラの「緋色を背景にする女の肖像」。フェラーラの足跡を追い求めてたどり着いたポルトガルの地で、宗像は美術界を揺るがす秘密に迫っていた。美術界と建築界に燻るスキャンダル。その深部と絵の謎が交錯していく。アートに翻弄された人々の光と影を描き出す、壮大なミステリードラマを連載でお届けします。
エステ氏は慎重にカッターを入れ、丁寧に裏蓋を外し、絵を取り出すと宗像に手渡した。裏返して見たのだが、サインもエディション・ナンバーも記されておらず、ただの真っ白い紙ではないか?
「サインもエディション・ナンバーもありませんよ!」
宗像は驚いて詰問するように咎めると、エステ氏は平然とこう言い放った。
「この値段では、サインまでは無理でございます……」
呆気にとられて暫くは開いた口がふさがらなかった。絵をエステ氏に突き返して店を出ても良かったのである。もしもそうであったなら、この一連の出来事は不思議な物語にはならず、いつもの撮影旅行での、ほんのちょっと奇妙な一コマとして終わっていたことだろう。
宗像は騙されたことに対する怒りを鎮めながら、もう一度絵を取り上げ、じっと見ていると、午後にテート・モダン美術館で心地に会う約束をしていることを思い出した。
心地顕は宗像の大学時代の同級生である。宗像は写真、心地は美術史と、履修コースは互いに違っていたのだが、郷里が偶然近いということに併せ、映画という共通の趣味を持っていた。その後、なんとなく気が合う以上の親しい仲になり、現在でも頻繁に連絡を取り合っている、まさに親友同士という間柄だった。そんな関係だから心地が東京に帰って来た時は、会って一杯飲むことにもなった。
宗像はこの絵に出会った偶然性について考えてみた。まず第一印象だがミステリアスな雰囲気を秘めている不思議な絵だ。故意か偶然かは分からないがエステ氏の嘘には腹が立つ。しかし興味をそそられる絵という事実に変わりはなかった。結局、これも何かの縁ではないかと考えることにしたのである。
それに、もう一つ重要な理由があった。宗像はこの美しい横顔の女に惹かれてしまったのだった。この絵を日本に持ち帰りたい強い気持ちが沸き起こったのだった。宗像には若い頃、恋人に関する不幸な出来事があった。
結婚するはずだった婚約者を突然の病気が襲い、帰らぬ人となった。それ以来、宗像の前に現れた女性も何人かはいたのだが、気持ちの切り替えもままならず、気がつくと四十六歳になっていた。
※本記事は、2020年8月刊行の書籍『緋色を背景にする女の肖像』(幻冬舎メディアコンサルティング)より一部を抜粋し、再編集したものです。
【登場人物】
宗像 俊介:主人公、写真家、芸術全般に造詣が深い。一九五五年生まれ、46歳
磯原 錬三:世界的に著名な建築家一九二九年生、72歳
心地 顕:ロンドンで活躍する美術評論家、宗像とは大学の同級生、46歳
ピエトロ・フェラーラ:ミステリアスな“緋色を背景にする女の肖像”の絵を26点描き残し夭折したイタリアの天才画家。一九三四年生まれ
アンナ・フェラーラ:ピエトロ・フェラーラーの妻、絵のモデルになった絶世の美人。一九三七年生まれ、64歳
ユーラ・フェラーラ:ピエトロ・フェラーラの娘、7歳の時サルデーニャで亡くなる。一九六三年生まれ
ミッシェル・アンドレ:イギリス美術評論界の長老評論家。一九二七年生まれ、74歳
コジモ・エステ:《エステ画廊》社長、急死した《ロイド財団》会長の親友。一九三一年生まれ、70歳
エドワード・ヴォーン:コジモの親友で《ロイド財団》の会長。一九三〇年生まれ、71歳
エリザベス・ヴォーン:同右娘、グラフィックデザイナー。一九六五年生まれ、36歳
ヴィクトワール・ルッシュ:大財閥の会長、ルッシュ現代美術館の創設者。一九二六年生まれ、75歳
ピーター・オーター:ルッシュ現代美術館設計コンペ一等当選建築家。一九三四年生まれ、67歳
ソフィー・オーター:ピーター・オーターの妻、アイリーンの母。
アイリーン・レガット:ピーター・オーターの娘、ニューヨークの建築家ウィリアム・レガットの妻。38歳
ウィリアム・レガット:ニューヨークでAURを主催する建築家。一九五八年生まれ、43歳
メリー・モーニントン:ナショナルギャラリー美術資料専門委員。一九六六年生まれ、35歳
A・ハウエル:リスボンに住む女流画家
蒼井 哉:本郷の骨董店《蟄居堂》の店主
ミン夫人:ハンブルグに住む大富豪
イーゴール・ソレモフ:競売でフェラーラの絵を落札したバーゼルの謎の美術商