8 My Simple Heart–Carol Douglas

香子は、翔一の持っているDJとしての真面目な考え方と、お店に来るお客さんと、多くの言葉を交わすことは滅多に無いんだけれども、そこには確かに存在しているコミュニュケーションと、それを、感じとれる彼の持つセンスに、ふれて一種の感動を覚えていた。そして

「翔ちゃんは、とてもやさしい人なのね。それに、きちんと筋の通った考え方を持ってるし、その考え方をはっきりと主張できる人なのね」

香子は、素直に感じたままの感想を言った。

「それほどでもないけどね、まだまだ修行中です。ホントに」

翔一は、本心を口にした。

最初に、交わした中身のある会話のあと、今まで少しだけ離れていた2人の肩は、完全に触れ合える距離に近づいていた。

2人が向かう「NULLS」まで、時間にして10分ぐらいの距離。
歩くだけで、こんなに充実した気分になったのは初めてかも。
今夜、出逢ったばかりの2人はお互いに、同じ感想を持っていた。

翔一が、女性と一緒に入って来たのを発見した友人は、
『最近は、滅多に女性を連れて歩かなくなった男が珍しいな』
だから、及川は彼女にもきちんとした挨拶をしてくれる。

「じゃあ翔ちゃん、これをお願いします」と言って、及川君は白い封筒を手渡し
「仕事があるから、また後でね」そう言って、DJブースに戻っていった。

翔一は、香子のためにスツールを引いてやり、向かい合う位置に座る。ゲストの位置が決まると3秒後には、NULLSのフロアーが、間髪を容れずにドリンクオーダーを、取りに来る。

2人は、それぞれオーダーを伝える。フロアーは、軽く会釈をしてさがった。

テーブルを挟んで向かい合った2人はしばらく、お互いを見つめ合っていた。

やがてオーダーが、テーブルの上に置かれる。

今夜のNULLSには、なぜかあまり人が居ない。
DJの選曲も、合わせておとなしめの曲をチョイスしている。
2人は目を逸らそうとしない、表情も変わらない。
まるで鏡に映っている自分の顔を見ているように。
2人のあいだを、静かに時間が流れる。

透明な空気中を、青い煙が漂いながら移動するそんな感覚。

やがて、翔一が言った。
「香子さん、あきちゃったりすることは、なさそうですか?」

「ないと思う、こういうときの私の勘は絶対にはずれたことがないのよ」

2人はお互いに一言ずつ言葉を交わした後、テーブルに置かれていたグラスのストローに、唇をあてた。

「失礼いたします。水嶋さんに鷲尾様とおっしゃる方からお電話が、入っていますが」
そう告げに来てくれたのは、先ほど絶妙なタイミングで、オーダーを取りに来たフロアー君だった。

翔一は席を立ち香子の視線に小さく微笑んで、フロアーが先立ち、案内する場所へと向かった。

「こちらです」フロアーは、エントランスに置かれたテーブルの上に、外して置かれている受話器を取りあげ、左手を添えて翔一に渡す。

翔一は渡された受話器をを耳にあて、
「もしもーし、翔一です」と言った。

「翔ちゃん? 俺、新二。今帰ってきたよー疲れたよー。GET完了ですー」
かなり忙しい取引だったのか、向こう側の男はまだしゃべり口に忙しさを表している。

「お疲れ様、ご苦労さんです。こっちのほうも、終わってるから、そっち行ってもいい?」翔一が、訊くと
「いいよ、いいよ、全然大丈夫だよ」鷲尾新二は、しばらく落ち着きそうにない様子だ。