第一話

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出逢い時は、川の流れのように流れ──。

全国高等学校女子硬式野球選手権大会が開催され、第7回を迎えようとしていた。

2003(平成15)年 春 埼玉県・大宮市

「本日の議題の中心は、第7回の夏の全国大会を秋田県・大館(おおだて)市の木のドームで行おうと思っていますが、会長を含め、理事の方々のご意見を伺いたいと思います」

と、全国高等学校女子硬式野球連盟(女子高野連)初代事務局長を務める四津浩平(よつこうへい)が開口一番に述べた。

各理事は、

「秋田県、東北地方への普及という狙いは分かるが、そこに行くまでの旅費が各学校負担になるのではないかね」

と危惧を表した。

その言葉を聞いた四津は、

「実は、本連盟の会計係の鈴木さんが先日、一人で秋田に行き、非常に遠いところだとの報告を受けています」

「それでは、関東の埼玉県であれば皆さんいかがでしょうか」

と、佐藤栄太郎(えいたろう)会長が進言し、第7回全国高等学校女子硬式野球選手権大会が埼玉県で開催されることに決定した。

その後、四津から佐藤会長に、

「今大会の大会実行委員長は、花咲徳栄(はなさきとくはる)高校の濱本(はまもと)先生を推薦したいのですが、ご承認いただきたいと思います」

推挙された私は、人気テレビ番組『なんでも鑑定団』の初期の鑑定員をしたこともある古美術商である四津さんから、大会運営のやり方を細かに手取り足取り教えられ、お互いのやりとりのFAX用紙は100枚以上に上っていた。

5月に入って、大会委員長となり多忙を極めていた私のところに、花咲徳栄高校開校時の1982(昭和57)年、男子野球部初代監督に就任した時から陰に陽に支えてくれていた埼玉県・加須(かぞ)シニアの中学生野球チームの監督である網野(あみの)さんが、女子硬式野球の中学3年生の情報を届けに来た。

「栃木県の佐野シニアに女の子のキャッチャーで、高島という子がいるんだが、誘ってみたらどう」

という話が舞い込んだ。

──網野登(あみののぼる)。

加須(かぞ)市の最初の少年野球チーム「ポパイ」を創設。

加須市の中学軟式野球部を外部指導し埼玉県で優勝。

1985(昭和60)年、中学硬式野球チーム「加須シニア」を立ち上げ、プロ野球選手、甲子園出場選手を多数輩出。

監督歴50年以上の大監督である。

ニックネームは「タヌキ」。

最初の出逢いは、1982(昭和57)年のことだった。当時、私は弱冠26歳で花咲徳栄高校の青年監督に就任した。

私は大学時代に乗用車の助手席に乗っていた際に衝突事故に遭遇した時のショックから車の運転免許を取得しておらず、監督就任直後に加須市内の老舗(しにせ)自転車店で購入した新品のアイボリー色の自転車に乗り、練習用の白いユニフォームを着て、当時、網野さんが外部指導を行っていた加須市立昭和中学校の校庭に立ち寄った時のことだった。

校庭では投手を含めたバント処理の練習を行っていた。

声の掛け合い、サイン確認の徹底……。

──中学軟式野球でこのように細かく、丁寧に練習をしているとは。

アイボリー色の自転車に乗ったまま、この練習を食い入るように私は見つめていた。

3時間は経っただろうか、途中小雨が降ってきたが、ずっと見つめていた。

ようやく練習が終わった。

「初めまして。今年の4月に開校した花咲徳栄高校野球部監督の濱本と申します。よろしくお願いします」

と、緊張気味に挨拶をした。

「さっきからあなたを見ていたんだが、こういった基本の練習を3時間も見学した高校の監督はあんたが初めてだね。甲子園に出場している監督やスカウトたちは名刺1枚を渡してさっさと帰っていたよ」

と、網野さんはタヌキのような体型から低い声でいっていた。

その年の大晦日、花咲徳栄高校野球部は夏休み以降、1期生の部員が5名となり

「人がお盆やお正月で休んでいる時にこそ練習をしよう」

と、私の自宅に部員を宿泊させ、〝ゆく年くる年〟の時刻に、プレハブの簡易室内練習場でノックを行っていた。そこへ網野さんが加須名物のうどんの入った大きな鍋を持ってきてくれた。練習後、皆で味わった。

そして、最後の締めとして『徳栄小唄(とくはるこうた)』なる歌を、初代キャプテン長島光春(ながしまみつはる)を含めた5名で夢に向かって歌わせていた。

徳栄小唄

一つとせ 人に知られし埼玉の おいらは徳栄野球部

二つとせ 踏んだり蹴ったりされました 男度胸もつきました

三つとせ みんなの嫌がる練習を 伊達(だて)じゃ推挙(すいきょ)じゃできやせぬ

四つとせ 汚れたユニフォーム背負って 粋(いき)な学生野球部

五つとせ いつもの練習耐えました いつものしごきも耐えました

六つとせ 向こうを走るは伊勢崎(いせざき)線 おいらも早く帰りたい

七つとせ 涙と汗の染みこんだ つらさ知ってるグラウンドよ

八つとせ やっぱりおいらは徳栄の 学生根性見せてやる

九つとせ 苦しい練習の日々でした つかんだ根性伊達じゃない

十とせ  遠い甲子園を夢に見て 励んだ練習今は夢

終わりとせ 埼玉優勝成し遂げた 徳栄野球部ここにあり

徳栄野球部ここにあり

「来年は初の1勝をし、夢の甲子園に出よう」

と、除夜の鐘を聞きながら、いつか甲子園出場という大風呂敷を広げて網野さんと私は新年を迎えた。

あれからもう、21年が経っていた。

その網野さんが高島宅に連絡を取り、中学校の修学旅行後の5月中旬に高島の自宅に伺い、網野さんと私は挨拶を行った。が、

「花咲徳栄に女子の野球部があったなんて、初めて知ったよ。うちの娘は神村(かみむら)か埼玉栄(さかえ)に行かせるつもりだよ」

と、高島の父親が全くけんもほろろの対応であった。

「網野さん、弱いチームは名も知れず、こういう扱いを受けるんですね」

と、悔しさと惨(みじ)めさを胸に納めた私であった。

だが、高島本人と高島の母は、なぜか弱い花咲徳栄のチームにもかかわらず、彼女たちが私の話に耳を傾けてくれる様子を見て、多少の脈はあると感じていた。

7月に入り、大会パンフレットの作成、会場確認、各関係各位への案内状作成など、大会まで押し迫っていた状況の中、私は1枚のハガキを高島宛に投函(とうかん)した。

高島知美(ともみ)様

8月に女子硬式野球の全国大会が、埼玉県大宮市にある大宮県営球場で開催されます。開幕試合は埼玉栄高校と花咲徳栄高校です。よかったら試合を観戦し、高校の女子硬式野球の素晴らしさを感じて下さい。

花咲徳栄高校女子硬式野球部

監督 濱本光治

第7回全国高等学校女子硬式野球選手権大会が開幕した。

スタンドには私の行きつけのお店であるお寿司屋「山銀(やまぎん)」の山川ご夫妻が、花咲徳栄の応援にわざわざ来てくれていた。

このお寿司屋「山銀」は昭和62年に加須市で開店した。白い青森檜葉(ひば)でできているカウンターがあり、まるで白無垢(しろむく)を着せた花嫁のような美しさがあるカウンターが設(しつらえ)てある店だ。

日曜日の開店時間に席が空いていれば、玄関から入って一番奥の席に座るのが常で、いつものようにビールを注文してノドを潤してから

「今度、大宮県営球場で、女子硬式野球の全国大会に花咲徳栄高校が出るので、もしよかったら一度見に来ませんか。山銀さんには、実際の女子硬式野球を見てもらい、また、弱い時の花咲徳栄を見ていてほしいんですよ」

と、山銀さんに伝えた。

「見に行きますよ」

と、お店のお仕事があるにもかかわらず、快諾してくれた。

この時のことがきっかけとなり、このお店には日本のプロ・アマの女子野球関係者が集い、これからの女子硬式野球をどう発展させるかという熱い野球談義をする場となり、世界各国からの女子野球関係者も集うお店になった。

開会式準備でてんやわんやしていた本部前に、二人の女性が現れた。

高島知美と母親であった。

「よく来てくれました。本部横の場所が一番よく見える席です。そこで開会式、開幕試合を見ていて下さい」

連盟の顧問であり、参議院議員でもある江本孟紀(たけのり)氏の始球式後、開幕試合が始まり、花咲は埼玉栄に10対0の7回コールド負けを喫していた。

──あえて負け試合を観せたけど、こんな弱いチームに高島が入ってくれたらなあ。

と相手チームの勝利を称えての校歌を聞きながら、三塁側ダッグアウトから、観戦していた高島母子に目線を注いでいた。

紅葉に色づいた木々の葉に、木こ漏もれ日の光が射し、美しさを増していた晩秋。

1本の電話が私の下に鳴り響いた。

「あのー 高島といいます。花咲徳栄高校に入学したいので、よろしくお願いします」

──いやー 嬉しいね。核になる選手が入ることで、必ずチームは強くなる。3年後にはこの弱い花咲徳栄を日本一にしなくちゃ。

と、またもや日本一という大風呂敷を広げる私であった。

「物を計るはものさし

人を計るは志(こころざし)だ」

※本記事は、2017年2月刊行の書籍『女子硬式野球物語 サクラ咲ク1』(幻冬舎ルネッサンス新社)より一部を抜粋し、再編集したものです。