8 My Simple Heart–Carol Douglas

彼と彼女はつい、さっき出逢ったばかり。

どんなときでも、握手を求めるのはいつも彼のほうからだったはず。

この街で、1日の大半を過ごすようになってから、初めて逢った女性と打ち解けることなんか数え切れないほどあったはずだけど、今夜のこの出逢いはそれまでに数々あったものとは違う。

どこが、どう違っているのか。何が違っているのか彼には、まるで解らない。でも、全然違っていることだけは認識できる。

とても不思議な感じ。
妙に心地よい感覚が、体中に広がっていることだけが感じられていた。
上手く言い表すことが出来ない。

翔一と香子は、握手をした手を解いて並んで歩き始める。

「翔一君? それとも翔一さん? どぉ呼んだら、いい?」香子は横から翔一の顔を覗き込むようにしながら言った。

彼は、ちょっと深刻そうに考える振りをしてから、
「うーん、できれば、『翔ちゃん』っていうのが、いいんだけどなぁー」覗き込む香子の瞳に、自分を映しながら言った。

「翔ちゃんか、翔ちゃんね。そうね、翔ちゃんが、いいわね。呼びやすいし」

彼女が、自分の名前を呼ぶたびに返事をしそうになる自分に、気づき、滑稽な自分を、押し留めようとして赤面していた。

『夜が暗くて、よかった』

そして今度は、翔一が
「じゃあ香子ちゃんのことは、なんて呼んだらいいのかな?」同じふうに、訊いてみた。

「私は翔ちゃんが、思ったふうに呼んでくれれば、それでいいわ。でも、全然、別の名前なんかで呼んだりしたら怒っちゃうからね。たとえ寝言でも」そう言って、香子は翔一を見つめて微笑んだ。

予測できなかった彼女の言葉と自分に向けられた微笑の美しさに、彼の意識は、局所麻酔をうたれたように、麻痺してしまった。

でも、その麻痺は一瞬だけ。また、すぐに意識は元へ戻ってくる。まるで、即効性の麻薬のよう。翔一にとって、この何分間は夢の中にいるような、今までに経験したことのない時間だった。