ボサード少佐

一九四五年秋、ボサードは上海の連合軍司令部に転任した。

ソビエト軍が朝鮮半島に迫り、連合軍の緊張は続いていたが、上海では穏やかで、ゆったりとした時間が流れていた。夕日が上海の外灘(バンド)の建物を茜色に染め、和平飯店がオレンジ色に輝いている。黄浦河の茜色に染まった川面に、三角の帆を張ったジャンク船がのんびりと浮かんでいる。

ボサードは途中から全く記憶がない。

上海に来てから毎日、将校ばかりが出入りする外灘のレストランに通っていた。レストランの給仕をしている若い中国人の娘が気になっていたからだ。その娘は、色白で細身の体をチャイナドレスに包み、長いまっすぐな黒髪と黒い瞳が印象的な美人だった。

ボサードがその娘を見ると、いつも目が合った。名前も知らないその娘は、ボサードと目が合うと、恥ずかしそうに微笑んで下を向く。そのしぐさを見ると、ボサードは体から力が奪われるような感覚を覚えた。上官が話をしているときも、ちらちらとその娘を見ていた。

夜も更け、十時を過ぎたころ、上官が「二階に行こう」と言った。

皆が立ち上がり、二階に上がる階段に向かうと、娘が人目を忍ぶようにボサードに紙を手渡した。手渡された紙には「一時に店の裏口で」と英語で書かれている。

「そんな時間に出られるかな」とボサードは思ったが、上官たちは食事のあと、二階にある個室でポーカーを始め、宿舎に戻るのが明け方になることもあった。

そばで見ているだけのボサードは退屈で、一人で宿舎に帰ることも多かったので、「ゲームを眺めて時間をつぶしていたら、 その時間に抜け出して行くことができるかもしれない」と思った。ボサードは踊り出したくなるような気持ちを抑えて、上官たちについて二階に上がって行った。

「英語が話せるかな」

上官たちが二階の個室でポーカーを続けている間、ボサードは英語の雑誌を読みながら、ドキドキする気持ちを抑えて、平静を装っていた。

やがて午前一時になった。

ボサードはトイレに行くふりをして一階に降りると、急いで裏口に向かった。店の奥にある裏口を開けて外に出ると、少し離れたところに娘が立っていた。

「ハイ」

ボサードが声をかけると、娘はにっこりと笑った。暗がりに立ち、頭上の電燈の黄色い光が、ぼんやりと娘の姿を照らしている。濡れた石畳が光を反射し、娘は暗闇の中で光に包まれ、まるで「まゆ」の中に立っているかのように美しく浮かび上がっている。

ボサードが暗がりに足を進めて娘に近づくと、いきなり後ろから頭を強く殴られ、意識を失った。