耐乏生活の始まり

終戦の翌年の一九四六(昭和二十一)年に、私は国民学校一年生となりました(国 民学校は一九四六年で終わり、翌年からは学校教育法により再び小学校になりました)。物資のない時代ですから、一年生のかばんとはいえ、それぞれ親が作ったもの、軍用のかばん、兄弟のお下がり、風呂敷など様々でした。

服装も汚れた絣(かすり)の着物を着てくる者、破れたところに布あてをした服を着た者など、バラエティーに富んでいました。教科書もお下がりの本やノートに手書きで書き写したものを使っている子もいました。

一年一組、担任の先生は石丸房子先生、女性としては背が高く、白髪交じりの優しい先生でした。教室に入ってきて、一人ひとり生徒の名前を読み上げ、顔と名前の確認をしていました。私も名前を呼ばれて「ハイ!」と大きな声で返事をしました。

先生はにこにこと笑顔で、「恵比寿さんが砂糖をねぶったような顔をしているね」と言われました。それ以来、私のあだ名は「えべっさん」になってしまいました。あだ名で呼ばれるのが嫌でたまりませんでしたが、いつまでもこの名がついて回りました。

当時は子供用の自転車がなかったために大人の自転車に乗っていましたが、足が届かないので、「三角乗り」という乗り方をしていました。自転車のフレームの三角のところに片足を突っ込み、ペダルを踏むので、バランスを取るために自転車が少し斜めになり運転が難しいのですが、そんな乗り方でお使いなどに行っていました。今は三角乗りをする子供はいませんが、当時の子供は普通に乗りこなしていました。

終戦直後は、河川敷や川の土手下などに朝鮮から移住してきた人たちの住む集落がありました。そこで密造酒を作っていた人たちがいました。当時は朝鮮焼酎(カストリ)と言っていました。父は安い焼酎を飲みたいので、私に買いに行かせるのです。赤いゴムの水枕に焼酎を入れてもらい、それを自転車の前の籠に入れ、三角乗りで帰ってきました。

近所の漁師で、工業用のメチルアルコールを水で薄めて飲んで失明した人がいました。酒飲みの中には、そうまでして飲む人がいたのです。

※本記事は、2017年11月刊行の書籍『霧中の岐路でチャンスをつかめ』(幻冬舎ルネッサンス新社)より一部を抜粋し、再編集したものです。