仮説の定義と仮説的知識の形成について

「神であるは土からあらゆる野の獣と、あらゆる空の鳥を形造り、それにどんな名を彼がつけるか見るために、人のところに連れて来られた。人が生き物につける名はみな、それがその名となった」(創世記2:19)。日本にも「名は体を表す」という諺があります。しかしそれが正しく機能したのは、アダムが堕落する前までの話です。

広辞苑によれば、「仮説」とは「自然科学その他で、一定の現象を統一的に説明しうるように設けた仮定。ここから理論的に導きだした結果が観察・計算・実験などで検証されると、仮説の域を脱して一定の限界内で妥当する真理となる」とあります(下線は著者)。

したがって進化論の信者たちが云々するような命題「進化論という仮説は真である」のような表現はいかに強弁しようとも、その中身は「私は進化論を信じます」という単なる信仰告白でしかありません。「進化論と呼ばれるこの仮説は偽と証明されたわけではない」というレトリックの裏返しです。仮説という限りは文字通り仮説なのです。

「真である仮説」などというものは言葉の綾でしかありません。しかし仮説というものは、それが偽であることが証明されるまでの間は、予測を立てるために必要不可欠な手段であることに変わりがありません。

さて科学における仮説の形成と実証は図に示す通り全体がループ構造です。どこから説明してもいいのですが、一応前提である仮説から始めると以下に示すような一連の検証作業となります。

(1)仮説から演繹的推論によって予測を行う。

(2)この予測に基づいて観察、測定、実験を行う。

(3)この実験により得られた事例が予測と一致すれば、仮説はこの枠内において真であると実証されたことになり、これにて一件落着です。

(4)しかし予測に反する事例が得られたならば、その仮説は棄却されるか、またはその反例を取り込んで帰納的推論により再び仮説を作り直し、再度、(1)に戻らねばなりません。

このように一巡しなければ仮説は永遠に仮説なのです。したがって実証のできない二つの大前提である「創造論」と「進化論」は、実証の過程を「信仰」か「不信仰」かによってワープするが故に、科学では扱うことのできない「創造主を信じる宗教」と「創造主を信じない宗教」になるというわけです。神が噓つきでなければ、いずれが真であるかの日は必ず到来するというわけです。それが聖書に約束されたキリストの再臨です。 

仮説的知識の形成モデル
※本記事は、2019年7月刊行の書籍『西洋キリスト教という「宗教」の終焉』(幻冬舎ルネッサンス新社)より一部を抜粋し、再編集したものです。