ナギーブは、ジョンと同じレバノン人だがムスリムだ。

すると今度は女性事務員のマリーが英語で口をはさんだ。

「三十年前に憲法が制定された時と現在では実態が違ってきているのは確かよ。でも大統領とか首相を宗教で選んだり、国会議員数を宗教の人口比にしたりするのは全くおかしいよ。宗教に関係なく平等にちゃんと選挙で選ぶべきだと思うわ」

高倉はマリーの意見に感銘を受けた。
マリーはレバノン人ではなくアルメニア人である。

アルメニアは黒海とカスピ海の間にある小国であり、その昔、オスマントルコによる大虐殺を受け、多くのアルメニア人は国外に逃亡した。マリーとその家族も同様だそうだ。又、アルメニアの国教はキリスト教なので、この場合クリスチャンの方を支持するのが普通であろうが、マリーは実に見識のある意見を述べていた。

ジョンとナギーブ、マリーはしばらく侃々諤々と結論の出ない、しかも日本人にはとても入っていけない議論をしていた。

外では相変わらず銃声が続いている。ジョンがふと我に返ったように、

「自分は議論をしている場合ではない。家族のことが心配だ。すぐに帰らなければならない。あ なたたちも早く逃げた方が良い」

そう言い残してオフイスを出ていった。

しかし彼はこの時以来消息を絶った。

ジョンは、
「早く逃げろ」と言い残したが、ナギーブとマリーはしばらく様子を見るべく比較的落ちついていた。

二時間ほど待機していると、オフイスのまわりの銃撃戦はどうやら収まったらしく、七洋商事にも、
「引きあげるなら今だ」
との情報が入った。

皆階下ヘ降りるのにエレベーターは使わず階段を使った。だから階段には長い列ができた。タクシー組はグランドフロアへ、自家用車組は地下駐車場へ降りた。

広場に出ると不思議なことに、いつのまにか、通常と同じような車と人の往来が戻っていた。

狐につままれたような気分で、高倉はタクシーに乗り込み宿泊先のホテルに戻った。

夜になるとまた銃撃戦が始まり、マシンガンに加えてロケット砲のドンドンドンも混じり、まるで花火大会のような音が一晩中鳴り響いた。

高倉はホテルの窓側から出来るだけ離れてベッドの横の床に普段着のまま寝ようとしたがとうとう一睡も出来ず朝を迎えた。

家族のいる駐在員たちはどうやってこの夜を過ごしたのだろうかと、彼は思った。

これが一九七五年四月一日のレバノン内戦勃発の日の出来事である。

※本記事は、2020年9月刊行の書籍『アパルトヘイトの残滓』(幻冬舎メディアコンサルティング)より一部を抜粋し、再編集したものです。