ところで、神に対する属性理解を列挙しようとすれば、例えば永遠という無限性(ローマ1:20、黙示録22:13)、無矛盾という完全性(マタイ5:48、Ⅰコリント14:33)、唯一という絶対性(申命記6:4)、全てに存在するという遍在性(エレミヤ23:23~24)、そして創造性です(創世記1:1、イザヤ45:5~8)。数学の数学たる所以はそれらの属性をメタ言語として記号操作することにより、対象の真偽判定を目的とするアナロジーだったのです。

神の存在証明とも言うべきゲーデルの「不完全性定理」が意味するものは、もちろん、神が不完全であるなどという論証ではありません。疑問の余地なき公理系を出自とする数学体系に誤りというものが存在しなければ、つまり完全であれば、「神の存在証明」は論理的に証明不能であるということを、数学的手法により「完全」に証明してしまったという意味です。

不完全なのは神の方ではなく、逆に数学の方だということになってしまったのです。数学という広大無辺の抽象世界において、いまだ証明を見ていない難問は少なくありません。

しかし証明不能を完全に証明し、数学の不完全性を証明したという意味の重大さを本当に理解し得たのは、ゲーデルただ一人なのかもしれません。では「完全」とは、結局、何のことなのでしょうか。

それでもあえて逆手に解釈しようとすれば、ここにこそある種の「救い」があるのかもしれません。もしも完全な統一理論というものが存在し、証明されたなら理神論の神の出現という事態にもなるのです。選択肢などという世迷い事はこの世から消滅するのです。

理神の「その神」の仰せに従い、人間はロボットのように生きる他はありません。一切の無駄やトラブルもなくなります。しかしそこには精神の自由さえありません。知的探求や遊びもありません。冒険も失敗も夢も感動もありません。全ての営為がプログラムされてしまうからです。

そんな薄気味の悪い世界の中で、人間は人間として生きられるものでしょうか。生きるために生きねばならないという世界こそが、本当の無間地獄ではなかったでしょうか。言わば究極のトートロジーです。そのような状況下で人間が正気を保てるとは、私には到底思えません。

ゲーデルの不完全性定理はしかし、そんな神の出現は決して起こり得ないということも逆証してくれたのです。狂人でもない限りこれに信頼を置くより他はない人間の合理性、即ち自明の理の方が実は自明ではないという証明でもあったのです。

それが今までは、つまり理論と現実がたまたま辻褄が合っていたというだけの話なのです。数学はこの時から完全という看板を降ろし、相対的蓋然的な世界への仲間入りを果たしたということになるのです。

ゲーデルが自殺願望に陥ったのは、この不完全性定理を発表してからだそうです。人類を代表し前人未到の数学的証明という偉業を成し得たゲーデルの最期は、即身成仏の如く栄養失調による餓死というものでした。

これが理性に対する数学者の絶望であり自殺であったか否かについては、知る由もありません。「理性の果て」のその先にゲーデルが何を見てしまったのか、誰にも分からないからです。

しかしゲーデル自身の救いは不可知論者の「教祖」として自ら名乗ることをせず、また虚無主義の「信者」としてふて腐れることがなかったという事実です。アインシュタインが身元保証人となりアメリカ国籍を取得する際に、フリードリッヒというキリスト教の洗礼名を自らの意思で抹消したのは事実です。

しかし何を根拠としてか、唯物史観を決して容認しようとはせず、神なき進化論をかたくなに否定しつつ、心のどこかでは来世を信じる常識人だったのです。ゲーデル曰く「世界は、合理的に構成され、疑問の余地のない意味をもっているという信念を、私は神学的世界像と呼んでいます。(中略)それは、来世の存在という目的のための手段に相違ありません」(ゲーデルの哲学)。

いずれにせよ、俗耳に聞き慣れた不世出の大天才という枕詞も陳腐に聞こえるほどの数学者であったことは、紛れもない事実のようです。全ては凡人の与り知らぬ世界の出来事です。

しかし私にも一つだけはっきりと分かることは、神の存在証明という問題を俎上にのせようとする時、それはたちまち疑似問題と化す「不思議」です。神は人知が証明すべき最後の対象物ではなく、神こそ人間の目的ではないのかということです。神を「証」するのと、神を「証明」するのとでは随分と違う生き方になってしまうものです。

証はキリスト者であれば誰でもできます。しかし証明はキリスト者であろうとなかろうと、誰にもできないというパラドックスなのかもしれません。ちなみに、神の別名は「不思議」(士師記13:18)です。

人間はヨブの妻が奨める如く「神の不正」を論難し、神を呪って死ぬくらいの意志を貫くのは可能だとしても、しかし「神の正しさ」をその人知によって証明することは全く不可能であるという意味なのかもしれません。