歌が始まるやいなや母はすぐに涙顔に……、そして声を震わせ唱和した。「おぼろ月夜」「影を慕いて」「イヨマンテの夜」……。

手拍子のリズムはおぼつかないが、手振り身振りは好調子だ。「私の好きな歌ばっかり……。久しぶりだ……」と、涙を拭く暇もない。

コンサートの中程、会場サービスで歌いたい人の希望を募った。母は童謡「浜千鳥」を大粒の涙で絶唱し、いつしか聴衆までがもらい泣き……。終演後、看護師たちも声をかけてくれ、「上手だったね……」と、母は急に人気者になった。

実は、百四歳になる増澤さんのお母様もこの高瀬病院に入院しているらしく、やはり毎日見舞いに訪れる日々なのだそうだ。きっと、今日のコンサートの目的の半分は、お母上への慰謝なのであろうか。

部屋へ戻る車椅子に乗りながら、興奮さめやらぬ様子で母が言った。

「こんなに、歌って楽しいんだね……」

失語症の不自由に加え、気ウツと隣床患者への気づかいから、最近ではあまり音楽を聴くことに積極的ではない。

「そうだろ、歌本を見て心の中で歌っているだけより何十倍も心が気持ち良くなるだろ。お母さんには歌のリハビリが必要なんだよ……」
「うん、歌のリハビリ、はじめるよ……」

以来、母はまた少しずつ歌うようになり、言葉の発声もはっきりと戻ってきた。

[写真] ♪青い月夜の浜辺には〜
※本記事は、2020年7月刊行の書籍『ありがとうをもう一度』(幻冬舎メディアコンサルティング)より一部を抜粋し、再編集したものです。