高倉がまだ齢三十そこそこの若造であった頃のことである。

七洋商事の業務研修生として、レバノンの首都ベイルートに滞在した。

業務研修生だから妻と子供二人の帯同はできず、単身赴任だ。

ベイルートは地中海東岸に位置し、一般的な中東のイメージとはほど遠く、風光明媚かつはなやかな街で中東のパリとよばれていた。

ロケーション、環境、気候などから、中東ビジネスの重要拠点として日本を含む多くの世界企業が、その出先をこの街にかまえていた。そのために外国人居住者が多く、それを顧客とする飲食店もまさにマルチナショナルであった。

だが、その華やかさとはうらはらに、レバノン山脈の東側はシリア、また南側はイスラエルと接しているため、いつ何が起きてもおかしくないホットな地帯でもあった。実際に過去三度の中東戦争を経験している国だ。

レバノンはこのような周辺国との関係のみならず、国内的にも多様な人種や宗教を抱えて、複雑な様相を呈している国であった。

高倉譲二がこのベイルートに向け出国したのは、一九七五年(昭和五十年)三月一日で、彼が日本以外の土地を踏むのは生まれてはじめてのことであった。

この時点ではまだ成田空港は存在せず、羽田国際空港からの出発だった。

母親も九州から出てきて空港に来たが、高倉は会社の上司先輩同僚への挨拶に追われて、妻子や母親と言葉をかわせなかった。もっとも話す時間があったとしても、母親とは、

「ほんなら行ってくるばい、なーんも心配するこつはなか。すぐ帰ってくるたい」
で終わりだっただろう。

実際彼は、一年位あっという間だ……と、わりと気楽にとらえていた。しかしあとで妻の洋子から来た手紙によると、母親はずっとデッキで飛行機を見送りながら泣いていたそうだ。

九州の田舎の年寄りにとっては、異国には日本人とは血の色、肌の色が全く違う人種が住んで いる。ましてやレバノンという国は聞いたこともない、どのあたりにあるのか見当もつかない。そんな所に行って、はたして生きて帰れるのか、今生の別れとなるかもしれない、との思いであったらしい。

※本記事は、2020年9月刊行の書籍『アパルトヘイトの残滓』(幻冬舎ルネッサンス新社)より一部を抜粋し、再編集したものです。