私(西野鉄郎)は高校生に英語を教えています。N(西野作蔵)君は私の塾のOBです。上智大学の2年生で、ロシア語を専攻しています。帰省中の冬休みのある日、私たちは茶房古九谷(九谷焼美術館内)で会いました。話は弾み、3日連続で、「織田信長と古九谷」について話し合いました。

2日目 新前田三代論 前田三代の虚実

この章(2日目)は本作品の結論を導くための「前田家三代の知識編」という位置づけになります。前田利長はまだ馴染みがありますが、利常になると、よほどの歴史好きしか知りません。印象の少ない藩主というイメージです。そうしたイメージを払拭しながらの説明です。

利家が加賀に「信長の理想郷」をつくったように、利長は高岡を「高山右近の理想郷」にしようとします。加賀一円に南蛮寺を建て、日本で初めてクリスマスを祝うなど「加賀には南蛮の風が吹いていた」といった話を詳細に掘り起こしていきます。

■それでも前田は徳川に屈服した印象が強い

N:それでも前田は徳川に屈服した印象があります。

私:後世から見ると、あたかも利長が家康に屈服したかのような印象を与えているのは、関ヶ原後の加賀藩が平穏になったからなのだ。関ヶ原の「前」と「後」を区別しよう。「後」は江戸幕府が成立して、利長は徳川に忍従した。しかし「前」は利長&右近で家康と互角に渡り合い、前田を守り抜いたのだ。

N:隠居「前」と隠居「後」の区別も必要ではありませんか?

私:隠居「前」、つまり、加賀藩主の時代の利長は父(利家)譲りで、利長には羽柴を名乗る気骨があり、かつ、羽柴を名乗る利長の実力を、家康は怖れ、名乗りを咎めることができなかったのだ。しかし隠居「後」は、利常と前田を守るのに、豊臣と徳川の狭間で、利長は汲々としていたんだ。 

N:とはいえ、まつは関ヶ原後も江戸にいましたよね。上杉討伐での人質は解かれるのではないのですか?

私:家康が金沢へ帰す約束を破った。まつが関ヶ原後も江戸にいたという話はまつの江戸下向の議論とはまた別の議論で、江戸幕府成立後はまつは大名証人制度ゆえの人質となったのだ。

■利長は和議反対派を一掃して加賀藩を守り抜いた

N:それでもまだ前田は徳川に屈服した印象があります。

私:そう感じるほど加賀藩が平穏になったのだが、そのために利長は二つの戦略を使った。一つは自分の政治的存在感を薄くした。薄くすることで加賀藩を守り抜いたのだ。一見支離滅裂にみえた行動、すなわち、隠居料を本藩に返納したり、自ら病状を徳川に書状で伝えたり、医師の派遣を頼んだり……。それらは利長の政治的な存在感を薄くして加賀藩を守り抜く、右近の考え抜いた作戦だったのだ。

N:支離滅裂な行動にみえましたが……。

私:もう一つは和議反対派を断固たる処置で抑え込んだ。和議は藩内の対立を深刻にした。利長自身が横山長知(利長謀反の弁明に右近とともに家康のところに派遣される)に命じて金沢城内で太田長知(反和議のリーダー)を暗殺させた。この英断で藩内意見が和議派に統一されていったのだ。
 

※本記事は、2020年5月刊行の書籍『古九谷を追う 加賀は信長・利休の理想郷であったのか』(幻冬舎メディアコンサルティング)より一部を抜粋し、再編集したものです。