私(西野鉄郎)は高校生に英語を教えています。N(西野作蔵)君は私の塾のOBです。上智大学の2年生で、ロシア語を専攻しています。帰省中の冬休みのある日、私たちは茶房古九谷(九谷焼美術館内)で会いました。話は弾み、3日連続で、「織田信長と古九谷」について話し合いました。

2日目 新前田三代論 前田三代の虚実

この章(2日目)は本作品の結論を導くための「前田家三代の知識編」という位置づけになります。前田利長はまだ馴染みがありますが、利常になると、よほどの歴史好きしか知りません。印象の少ない藩主というイメージです。そうしたイメージを払拭しながらの説明です。

利家が加賀に「信長の理想郷」をつくったように、利長は高岡を「高山右近の理想郷」にしようとします。加賀一円に南蛮寺を建て、日本で初めてクリスマスを祝うなど「加賀には南蛮の風が吹いていた」といった話を詳細に掘り起こしていきます。

[写真]京劇(硲伊之助美術館蔵)

■「守成」の利長と最期

N:おはようございます。

私:おはよう。きょうは前田三代の利長(利家長男・2代藩主)、利常(利家庶子・3代藩主)を語ろう。まずは利長から。利家の「創業」に対して利長の「守成」とされる。

N:利長は大河ドラマの影響でしょうか? 利長は家康に屈服して、母(まつ)を捨て、豊臣を裏切って、加賀藩を守り抜く。そんな最悪な印象です。

私:そうだろうなあ。しかし利長は加賀百万石は守るも、困難に次ぐ困難、絶望に次ぐ絶望の人生で、利長の死には病死、自死、毒殺説がある。

N:なんかすごい人生ですね。

私:利長は徳川にこう懇願する。京都隠棲と高岡城の破却と、隠居料の20万石のうちの10万石を本藩に返し、残りの10万石を徳川に返納すると……。そして自らの病状を書状で伝えたり、医師の派遣を頼んだりしている。

N:……。

■ニュー利長

(1)家康を屈服させた利長&右近

私:さてここからは新しい利長像を語ろう。

N:元気のでる利長像をお願いします。

私:利長を過小評価するのはやめよう。石高は実力のバロメーターで、利家83万石に対して利長は120万石ある。

N:ドラマの影響でしょうが、利長は豊臣家も母も捨てたでしょう?

私:利長は、死ぬまで、主家は豊臣家で、だから羽柴肥前守利長と名乗り続けた。

N:母は?

私:利長は家康を屈服させた。

N:まさか!

私:家康による加賀征伐はあったかい? なかっただろ。利長は家康を和議に持ち込んだが、しかし上杉景勝(直江兼続)は和議に持ち込めなかった……。

N:で、母は?

私:人質とは戦が始まる「前」にする約束の担保だ。つまり裏切りをさせないための担保が人質なのだ。だとすると、まつの江戸下向は加賀征伐の人質ではなく、上杉征伐の人質のはずだろ? だってまつの江戸下向は上杉征伐の直「前」なのだから。

N:たしかにそうですね。

私:まつの江戸下向は家康が加賀征伐を断念した「後」の話で、決して加賀征伐の「前」の話ではない。

N:ではなぜまつは江戸に?

私:「豊臣公儀の人質」としてまつが江戸に下向する。それは家康と利長の和議の落とし所だったのだろう。利長は「豊臣公儀の人質」として、五大老の先頭を切り範を垂れたのだ。それゆえに家康は加賀征伐を断念せざるを得なかった。つまり、利長は家康に決して屈服したわけでもないし、母を捨てたわけでもないのだ。

N:豊臣公儀の人質の証拠はあるのですか?

私:豊臣奉行から浜松城主宛ての書状が残る。「まつが江戸下向で一泊する。賄いの品を同行の二人に渡せ」。

(2)利長の師は高山右近右近の対「徳川戦略」

私:次は利長の師の高山右近について語ろう。利長に右近を配したのは利家だ。前田が存続できたのは、結果的に、この人事だった。信長・秀吉麾下の武将だった右近は戦国の浮き沈みをいやというほど見てきた。だからキリシタンの右近は利長に「不戦」の戦法を授けたのだ。

N:不戦?

私:家康には、対処療法では対抗できない。大きな絵を描けなければ、前田が生き残るのは無理だと右近は認識していたのだ。まつが江戸に下向したのも右近の勧めなのだ。

N:根拠はありますか?

私:徳川への利長謀反の弁明に前田は右近を派遣する。しかし家康は一瞬たりとも右近に会おうとはしなかったからだ。

N:家康は右近を警戒していますね。

私:家康は「和議」に持ち込む利長&右近の力を心底恐れた。そしてまつの下向が「不戦」のすべての始まりとなったのだ。

(3)利長は関ヶ原合戦を戦ってはいない

私:さて次は関ヶ原合戦を前田家は戦ってはいないことを話そう。家康は利長&右近の力を恐れて前田を金沢に釘付けにしたのだ。家康は関ヶ原に「前田の旗」を立てたくなかったし、豊臣恩顧の大名の動向にも影響を与えたくはなかったのだ。

N:証拠がありますか?

私:豊臣対徳川の最終決戦大坂の陣のとき、江戸留守居に家康は福島正則、黒田長政、加藤嘉明(旧豊臣恩顧の大名)を指名した。関ヶ原の徳川勝利の立役者を江戸に留め置いたのだ。徳川の天下といえども、家康はこれほどまでに用心する。しかしこの頃はまだ関ヶ原前の混沌の世。当然「前田の旗」は困る。家康は「和議」に持ち込む利長&右近の力を心底恐れていたのだ。

N:では大聖寺(石川県と福井県の県境)城攻めはどうなるんですか?

私:北陸は西軍(非徳川)がほとんど。それゆえ利長は西軍と和議を望むが、大聖寺だけが拒否して開戦に至る。城は1日にして落城して、利長は金沢へ帰城した。

N:まだ利長&右近の力を家康が心底怖れていた。そのことが納得できません。

私:ではさらに証拠をみせよう。ふたたび大坂の陣。作蔵君、豊臣対徳川の最終決戦大坂冬の陣はいつ始まったかい? 大坂の冬の陣は利長の死の半年後に始まるんだ。その日は、また、右近のマニラ出発の翌日でもあったのだ。関ヶ原合戦が利家の死の半年後だったようにね。

N:家康はなるほど前田を怖れていますね。

※本記事は、2020年5月刊行の書籍『古九谷を追う 加賀は信長・利休の理想郷であったのか』(幻冬舎ルネッサンス新社)より一部を抜粋し、再編集したものです。