進化論的世界観では初めから創造主は存在しないということに、人間が勝手に決めてしまいました。ですからそのような形而上的問題に煩わされる心配は無用です。

倫理や道徳などといったところで、それが人間同士の社会的約束や礼儀作法にすぎないとしておけば、人間は誰を恐れることもなく良心は自由です。問われる責任はなく、果たすべき義務もありません。

時期がきてこの世を去る日まで「飲めよ。食らえよ。どうせ、あすは死ぬのだから」(イザヤ22:12~13)と、楽しくやっていればいいのです。問われることがあるとすれば、へまをやらかした時の自己責任くらいです。

人間観に対する自己認識は単純です。創造論的人間観によれば、人間は神の形に似せて創られたと聖書は語ります。そして神よりいくらか劣るのが人間です。

進化論的人間観によれば、人間はサルよりいくらか勝る万物の霊長とのことです。霊長類ヒト科、進化の最先端を独走するトップ・ランナーです。

進化も途中であるとすれば一体どこまで行くのやら、自分たちにも皆目見当がつかないネバー・エンディング・ストーリーが、進化論です。

進化論とは、『広辞苑』によれば「生物のそれぞれの種は、神によって個々に創造されたものではなく、極めて簡単な原始生物から進化してきたものであるという説」だそうです。つまり「絶対的な神は絶対にいない」という前提だけを教義とする宗教概念であり、しかしそれ以外なら何でもありという唯物論にすぎません。

カテゴリーは明らかに宗教の範疇であり、科学と呼べるような代物ではありません。進化論という仮説の中に「絶対的な神は絶対にいない」という絶対条件を据える時、それは点検や反証可能な仮説ではありません。

手段の目的化という倒錯ですからこれから先何を論証しようとも、この絶対化された手段、即ち虚構の目的に沿った論理の展開とならざるを得ないのです。まさに科学を笠に着た宗教です。

このようにして物事を逆さに考えようとする時、ある人々にとっては筋の通る話が次々に出現するという怪奇現象が続くわけです。進化論の「拠り所」は確率的蓋然性であり、またそれを可能ならしめるためなら過去をいくらでも後退させることのできる「時間」という媒介変数の悪用であり、そのパラメーター操作にあったのです。

進化論の真偽は追試不可能であり、実験によって証明できないのをいいことにこれを隠れ蓑としたのです。「神は存在しない」という前提から始め、何のかんのと理屈をこね、やっぱり「神は存在しませんでした」というトートロジーです。

したがって、たといノーベル科学賞の学者が進化論についての講演会をしようとも、文部科学省の指導要領の下に理科や生物の科目として学校で教えられようとも、やはり宗教の話であることに変わりはありません。

科学者が講演すれば科学になるという話ではありません。穿った見方をすれば、進化論とは神を否定するために作られた方便であり、その「為にする」似非科学です。進化論こそが、サイエンス・フィクションだったのです。

※本記事は、2019年7月刊行の書籍『西洋キリスト教という「宗教」の終焉』(幻冬舎ルネッサンス新社)より一部を抜粋し、再編集したものです。