数日後に広島、長崎に原子爆弾が落とされたと知らされました。あの日防空壕の入り口から見たB29が爆弾を落としたのかもしれないと思いました。

母は産婆(助産師)の資格を持っていました。母の父は沖縄から、当時日本の統治下にあった台湾に渡り、そこで床屋を営んでいたそうです。母は沖縄で小学校に通い、台湾で産婆学校を卒業しました。

今でも我が家には母の「産婆学校卒業証書」が残っており、額に飾ってあります。その卒業証書には「台湾総督府警務局長 石垣倉治(後に長野県知事になった人物)」の名前があります。証書に少し汚れがあるのは、水害の時に持ち出した写真や大事なものの中に入っていたからかもしれません。

戦時中でも子供は生まれます。近所で産気づいた人がいると、母が赤子を取り上げていました。産婦人科で産婆として働いていたこともあるので、その経験が生かされたのでしょう。

母の妹、文子おばさんが沖縄からやってきて、私の家族と一緒に暮らすようになりました。文子おばさんは働き者で、食糧のない時代にお米や野菜などを闇で仕入れてきて、私たち家族の生活を支えてくれました。

お米の入った袋に帽子をかぶせ、背中に赤ん坊をおんぶしたようにカムフラージュして、半纏(はんてん)をはおって、満員の汽車に揺られて農村地や宮崎方面に買い出しに行っていました。食糧配給制度による当局の監視も厳しく、庶民は生きるために命がけで食糧を手に入れていたのです。

中には見て見ぬふりをしている監視官もいたそうです。庶民の苦しみがわかる監視官は見逃してくれたのです。

戦時中、駅付近や人通りの多いところには闇市が自然にでき、米や麦、芋や野菜、日用品などが売られ、お金がない者は物々交換をしていました。これが後々の商店街に変化していったのです。

日本の敗戦の色が濃くなってきたある日、低空飛行で、赤とんぼと呼ばれていた二枚羽根の飛行機が飛んでいました。何やら紙片をばらまいているのです。私は田んぼの中に落ちてくる赤い紙片を拾い、持ち帰って母に見せました。

母は、「とうとう日本が戦争に負けたんよ。『日本敗戦!』と書いてある」と言いました。

一九四五(昭和二十)年八月十五日、太平洋戦争が終わりました。私は六歳でした。

終戦の日を迎える前、近所の若い青年が真っ白い予科練の制服を着て帽子をかぶり、七つボタンを輝かせ、里帰りをしていました。その人が往還に続く道に一人立っているのを見かけたことがあります。

当時六歳の私にとっては憧れの予科練の姿でした。その人の姿を思い出すたびに、あの兄ちゃんは戦地に赴いたのだろうか、特攻に行く前に里に帰ったのだろうかと考え、青年の姿が霞のように彼方に消えていくような気がしました。

※本記事は、2017年11月刊行の書籍『霧中の岐路でチャンスをつかめ』(幻冬舎ルネッサンス新社)より一部を抜粋し、再編集したものです。