二つの世界観

世界観とは人間がこの世を理解しようとする時に、必ず浮上してくる問題です。それは次に自分自身を説明しようとする時の人間観の枠組みとなり、「拠り所」ともなるものです。ですから聖書は、「拠り所がこわされたら正しい者に何ができようか」(詩篇11:3)とその重大さを喚起します。

ところが人間は普段滅多なことでは、世界観などという問題を気に掛けたりはしません。聖書に記された人間観も耳障りがいいものとばかりは限りません。聞かずに済むのであれば、そのように願いたいものばかりです。

曰く「人はそれぞれ自分の欲に引かれ、おびき寄せられて、誘惑されるのです。欲がはらむと罪を生み、罪が熟すると死を生みます」(ヤコブ1:14~15)。

今や人間とは条件さえ揃えば誰であれ、「自分の欲」に引き寄せられる時、実行せずにはおれない危険な生き物となってしまいました。それが人間の歴史です。ですからそれぞれの心に漠然と潜む世界観について、そして人間観について、一度は意識の上層に引き上げ自覚的に検討してみることは、意味があるのではないでしょうか。

想定される世界観を大別しようとすれば、創造論的世界観と進化論的世界観です。しかし世界が二つ存在するわけなどありません。相反する二種類の世界観が解釈可能であるという意味です。

これは排中律ですから妥協策も折衷案もありません。双方が真であるとか偽であるということは絶対にありません。一方が真であれば、残りは必ず偽です。

人間はそのいずれか一方だけしか選べません。選ばないということもできません。選ばないという、その方を選んでしまうという結果になるからです。当然のことながら、どちらの世界観を信じようとも、世界の存在自体にいささかの影響もありません。

真理は人間を変えることはできるかもしれませんが、人間が真理を変えることはできません。即ち、どちらか一方が本当であれば、もう片方は、「噓」でしかないということです。

世界観の選択肢というこの問題に出会う時、人間は初めてある種の深刻な事態に直面していたことに気づかされます。もしも創造論的世界観の方を選んでしまえば、この世を被造物として認めたことになるからです。

自分も含まれるこの世界を創造したのは誰なのかという不可抗的問題です。次に出てくる芋づる式の難問を自分ではどうすることもできません。何のために存在するのかという理由と、その目的です。

そして、何故にこんなことになってしまったのかという、十分な説明です。結局どうなるのかという、結末と展望です。

そして問われかねないのが、自分の責任です。本当はこの問題を忌避したかっただけなのかもしれません。人にもよるでしょうが多少の理性を有する人間であれば、いつまでもしらを切り通せない問題であることは、誰もが薄々気づいているのです。

※本記事は、2019年7月刊行の書籍『西洋キリスト教という「宗教」の終焉』(幻冬舎ルネッサンス新社)より一部を抜粋し、再編集したものです。