天才の軌跡⑤ ロベスピエール

学校では、彼は非常な勉強家で、よく褒められており、進歩の早さに先生たちもおどろかされることがあったといわれている。十一才になると彼は奨学金をもらい、パリのルイ・ル・グラン学院という当時秀才の集まるので有名な学校に入学した。

アラスを離れる時、彼は泣きながらも、これもまた泣いている妹たちと弟をなぐさめようとした。そして、自分のおもちゃの類を彼らに分け与えたが、ハトは彼らがよく面倒をみないことを恐れてハト好きの人にまかせたとシャルロッテは追憶録に書いている。

勤勉なロベスピエールは、このフランス第一の学院でも優秀な成績を取ったが、一番であったことはなかったようである。この頃、他のめぐまれた学友に比べ、ロベスピエールは五百リーブル(他説には四百五十リーブル)の奨学金ですべてをまかなわなければならず、一着の服と穴のあいた靴しか持たなかったため、外出も困るほどであったという。

同級生は彼がメランコリックで笑ったのを見たことがなかったと言っている。しかし彼は不正に対しては激しい怒りをあらわにした。彼は若年者の保護者であり、弱い者のために、議論をし、雄弁さが役に立たぬ時には喧嘩も辞さなかった。

ジャン・ジャック・ルソーに熱中したのもこの学校にいた頃である。ルソーは、パリのプラトリエール通りに住んでおり、話をしたのかどうかは、はっきりとわかっていないが、「私は晩年の彼を見た。そしてこの想い出は私にとって真の歓びの源泉となっている。私は彼の堂々とした風姿を注視し、その中に黒い失望の影をみとめた。人々の不公平さが、彼をその中においやったのである」

ルソーは『告白録』から推察できるように、すでにこの頃から迫害妄想を持っていた、しかしロベスピエールにとってルソーは人間性のチャンピオンであった。

ここで興味があるのは、ルソーの幼年期はロベスピエールのそれによく似ていることである。ルソーの母は、ルソーを産んですぐ死亡しており、父親には捨てられている。

この他にもフランス革命の立役者の中には幼児期に父親を失っている者がいる。ダントンは裁判所の書記をしていた父を二才で失い、サン・ジュストは十才の時、騎兵大尉であった父を失っている。

十七才の時、ロベスピエールは学生の代表として、新しく王となった二十一才のルイ十六世に教授の作文になるラテン語の祝言を読んだのは運命の皮肉であろうか。二十三才で卒業すると、彼は法学士となるが、三カ月間パリで一件も彼に弁護を依頼する者がなかったので、故郷のアラスに帰り、弁護士を開業している。彼は弁護士としての役割に高邁な理想を持っていた。

それは幼児より妹と弟をかばい、学校では弱い者の味方であったように、恵まれない貧者の弁護というものである。そしてこの理想の追求がほとんど収入をもたらさないのを彼は全く気に留めなかったという。これは彼の一生をつらぬくもので彼をきらう者も彼が清廉潔白であることを疑う者はいなかったという。

※本記事は、2019年6月刊行の書籍『天才の軌跡』(幻冬舎ルネッサンス新社)より一部を抜粋し、再編集したものです。