「なんだす」
「他の宿屋さんを見て勉強したいのですが、どこかにお邪魔できませんでしょうか」
「お邪魔する、て」
「三日ほど、お掃除でもお運びでも使ってもらって、実地で勉強します」
「ははあ、なるほど。それは面白おますな。公事宿仲間に頼んでみます」

恭平が何人かに声を掛けると、すぐに快諾された。婚礼以来、播磨屋の可愛らしい若女将は噂になっていたし、商売上手という呼び声が高まってきた恭平に少しでも恩を売れるのは、彼らにも好都合だったのである。

数日後、喜久は最初の勉強先の宿屋に、手土産と弁当を持って出かけていった。恭平ははらはらしていたが、楽しそうな喜久の顔を見ると何も言えなかった。

その晩、二人きりになると喜久は早速報告を始めた。

「朝の手水(ちょうず)のことなんですが」

当時の宿屋では、朝一番に客間に桶一杯の湯、房楊枝、粗塩を運ぶ慣例があった。客は房楊枝と粗塩で歯を磨き、湯で顔を洗う。これを運ぶことを、手水を回す、といった。

「あちらさんでは、手水に房楊枝を二本お付けにならはります」
「ほお」

「歯を磨いている途中で房楊枝が駄目になることもあります。高いもんやなし、うちも二本付けたら、お客様が喜びはるんと違いますやろか。それに私らも朝の忙しいとき、房楊枝もう一本、言うて呼ばれることが減りますやろ」

「なるほど。そら妙案や。喜久は賢いな」
「お世辞言うても何も出まへん」
「女房にお世辞言う亭主があるかいな。ほんまに褒めてます」
「うふふ。明日も頑張ります」

それから二ヶ月で喜久は十軒近い宿屋に手伝いに行き、いろいろな情報を仕入れてきた。また、女将さん連中と仲良くなれたのも大きな収穫だった。

同年四月、ついに江戸開城、五箇条の御誓文を記した政体書の発布、となって新時代が始まった。播磨屋の家業のうち諸藩御用達と公事師はその基盤を失い、宿屋を本業とせざるを得なくなった。しかし、長州征伐以後の動乱に乗じて恭平が大儲けしていたので、すぐに困窮することはない。新事業を興すかどうか、しばらく時代を眺めることにした。

翌明治二(一八六九)年五月、喜久は長男徳太郎を出産した。恭平にとって妻子とは、人生で初めて手にした褒美であった。播磨屋の身代は大きくなった。商人仲間からも一目置かれる。当主仁兵衛を襲名した。可愛く賢い妻を得て、跡取りも誕生した。新事業という課題はあるものの、申し分ない成功と言える。

しかし、好事魔多し。

恭平に新たな試練が待ち受けていた。