外套の左ポケットからおもむろにパイプを取り出したその男は、それを銜え込み、左手をかざしながらライターで火を点けると、いつものように頬を二、三回膨らませた。すると首尾良く着火したのだろう、一度肩をわずかに持ち上げると、気持ち良さそうに白い煙を吐き出した。

男は少し迷っていた様子だったが、結局考え直したかのように何度か頭を小さく横に振って階段を下り始めた。恐らく、タクシーを呼ぶかどうか迷っていた様子だった。

しかしその日は風もなく、比較的気持ちの良い晩だったので、家まで歩いて帰ることにしたのだろう。ゆっくり歩いても、男が住んでいるメイフェアのフラットまでは三十分ほどの距離である。

テムズ川の方角から漂ってくる仄かな風と共に、零時を告げる鐘の音がビッグ・ベンから流れてきて、彼の身体を包み込んだ。男は右を振り向き、それらしい方角を見遣りながら、もう零時なのかというような顔付きをした。

歳のころ七十を少し超えているのだろうか、銀髪で細長い顔にかけられた太い黒縁の眼鏡の上で、幾分神経質そうに眉をくねらせるのが見えた。実はある考え事をするために、わざわざポートマン倶楽部に赴いたのだが、そこでは長老と呼ばれるこの男に、ゆっくりものごとを考えさせるような余裕は与えられなかった。

顔見知りの紳士たちが入れ代わり立ち代わり現れては、彼のご機嫌をとって帰って行ったからである。だからこんな気持ちの良い晩こそは、パイプを燻らせ、一人でゆっくり家まで歩き、倶楽部で果たせなかった例の問題でも考えてみようと思いついたのだった。

※本記事は、2020年8月刊行の書籍『緋色を背景にする女の肖像』(幻冬舎メディアコンサルティング)より一部を抜粋し、再編集したものです。