謎多き天才が残した一枚の絵画をめぐる、
超大作アート・ミステリー。
写真家の宗像は、偶然訪れたロンドンの画廊で、一枚の肖像画に心を奪われる。絵画の名は、夭折した謎多き天才画家ピエトロ・フェラーラの「緋色を背景にする女の肖像」。フェラーラの足跡を追い求めてたどり着いたポルトガルの地で、宗像は美術界を揺るがす秘密に迫っていた。美術界と建築界に燻るスキャンダル。その深部と絵の謎が交錯していく。アートに翻弄された人々の光と影を描き出す、壮大なミステリードラマを連載でお届けします。
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これより八カ月ほど遡る、その年の三月のある日のことである。ロンドン、ウエスト・ミンスター地区のとある一角つまり、バッキンガム・ゲイトに面して、さほど大きくはないが、古式蒼然としたたたずまいの、いかにも格式の高そうな一軒の建物があっ た。
薄汚れた感じは否めないが、ビクトリア調でデザインされた赤茶色の煉瓦積みの外壁に、太めに白く縁取られた開口部。そして同じく白色に塗り込まれた細い桟と、小さな板ガラスで組み立てられた両開きのポツ窓。
正面には八段ほどの階段があり、前面道路から一メートル近く上がったところが玄関になっていた。入り口脇の袖壁の足元を見ると一八二七年の完成を記した銘版が埋め込まれている。
そしてその上に、1828の年号と一緒に、PORTMANの文字が掘り込まれたブロンズ製の銘板が取り付けられている。幾分褪せた感じの緑青が変化して黒ずみ、その汚れがこの二枚の銘版から煉瓦壁に沿って幾筋か流れ落ちていた。
倶楽部では、常備されている電気錠とは別に、夜ともなると、紺色の制服に身を包み、同色の帽子を目深にかぶった警備員の深夜まで詰めている姿が、白色に枠取りされた玄関スクリーン越しに見えていた。
バッキンガム宮殿まで数分という場所柄もあるのだが、いかにも特別な建築であることを実感させるような立派な佇まいをしていたのである。
建物の一階には、ごく目立たぬような設えでポートマン倶楽部が置かれていた。
芸術に深い理解のある貴族として有名な、ポートマン卿が一八二八年に創立した、伝統誇る会員制の倶楽部である。発足当時の経緯もあるが、この倶楽部は名のある芸術関係 者が数多く出入りすることでよく知られていた。
しかしさすがに百七十年も経つと、当時の進取の精神はどこかに追いやられ、おまけに形式的とはいえ、入会資格も厳格過ぎて、今では功なり名を遂げた老人たちの溜まり場になりはてていたのだった。
ちょうどその時、一人の男が警備員に扉を開けさせて表に出てきたところだった。
【登場人物】
宗像 俊介:主人公、写真家、芸術全般に造詣が深い。一九五五年生まれ、46歳
磯原 錬三:世界的に著名な建築家一九二九年生、72歳
心地 顕:ロンドンで活躍する美術評論家、宗像とは大学の同級生、46歳
ピエトロ・フェラーラ:ミステリアスな“緋色を背景にする女の肖像”の絵を26点描き残し夭折したイタリアの天才画家。一九三四年生まれ
アンナ・フェラーラ:ピエトロ・フェラーラーの妻、絵のモデルになった絶世の美人。一九三七年生まれ、64歳
ユーラ・フェラーラ:ピエトロ・フェラーラの娘、7歳の時サルデーニャで亡くなる。一九六三年生まれ
ミッシェル・アンドレ:イギリス美術評論界の長老評論家。一九二七年生まれ、74歳
コジモ・エステ:《エステ画廊》社長、急死した《ロイド財団》会長の親友。一九三一年生まれ、70歳
エドワード・ヴォーン:コジモの親友で《ロイド財団》の会長。一九三〇年生まれ、71歳
エリザベス・ヴォーン:同右娘、グラフィックデザイナー。一九六五年生まれ、36歳
ヴィクトワール・ルッシュ:大財閥の会長、ルッシュ現代美術館の創設者。一九二六年生まれ、75歳
ピーター・オーター:ルッシュ現代美術館設計コンペ一等当選建築家。一九三四年生まれ、67歳
ソフィー・オーター:ピーター・オーターの妻、アイリーンの母。
アイリーン・レガット:ピーター・オーターの娘、ニューヨークの建築家ウィリアム・レガットの妻。38歳
ウィリアム・レガット:ニューヨークでAURを主催する建築家。一九五八年生まれ、43歳
メリー・モーニントン:ナショナルギャラリー美術資料専門委員。一九六六年生まれ、35歳
A・ハウエル:リスボンに住む女流画家
蒼井 哉:本郷の骨董店《蟄居堂》の店主
ミン夫人:ハンブルグに住む大富豪
イーゴール・ソレモフ:競売でフェラーラの絵を落札したバーゼルの謎の美術商