とはいうものの卑弥呼の側(伊都国および邪馬台国)からは、漢から金印「漢委奴國王」が出されている以上、後漢の官吏であった公孫氏と引き続いて係わりがあっても、それは成り行きというものであろう。邪馬台国にとっては何の違和感もなく、後漢の役人である公孫氏との遣り取りがそのまま続いている、という感じであったろう。

隆盛時の魏は、卑弥呼にとって頼りがいのある国であったが、衰退期の魏は、卑弥呼の死とも重なって、倭国大乱に対しても有効な軍事支援ができなかったと思われる。倭国に対してだけではなく、帯方郡への支援も弱体化したであろう。

帯方郡(魏)の衰退は、同郡から伊都国への軍事支援が弱まることを意味し、新しく覇者となった崇神と邪馬台国は、独り立ちをしなくてはならない立場になったのである。

第四回遣魏使の発った年が確定できないのは、魏が265年に西晋に代わる前だったからであろう。その遣魏使たちは、魏の曹氏に従うか西晋の司馬氏か、丁度迷う時期であったかもしれない。

とかく外交の道は、そのときの政情に左右されるし、また臨機応変の判断が要求されるのである。しかし魏から西晋へと完全に移行したあとの266年には、邪馬台国の台与は自信をもって、西晋に朝貢するのである。

既に崇神+台与の組合せに代わっていた邪馬台国では、一層の覇権強化策として、敗者出雲の実力を削ぐ行動に出たのである。魏の支援なきあとの、独り立ちを模索・企画・ 実行する段階になっていたのである。

崇神は、「(武日照命(たけひなてるのみこと)が)天(あめ)より将(も)ち来(きた)れる神宝(かむたから)を、 出雲大神(いづものおほみかみ)の宮(みや)に蔵(をさ)む。是(これ)を見欲(みまほ)し」とのたまわったのである。

出雲への無理強いであったから、この命令に出雲側が抵抗した様子は、もう述べたところだ。

※本記事は、2020年4月刊行の書籍『ユダヤ系秦氏が語る邪馬台国』(幻冬舎ルネッサンス新社)より一部を抜粋し、再編集したものです。