第6章 神道的死生観

「神道」は現代では、葬式としての神葬祭や戦死者の霊を祀った靖国神社参拝を除けば、「死」とは縁が薄いと考えられがちだろう。「初詣や七五三などにおいて、家内安全・商売繁盛・厄除け、子どもの健やかな成長などを、各地の、またそれぞれ担当の神々に祈る」というのが神道に対する一般的イメージに違いない。また、奥深い山岳の神社の森の森閑とした雰囲気がパワースポットとしてもてはやされるということも現代にはある。

ゲーテの翻訳などで著名なドイツ文学者・手塚富雄(一九〇三~八三)にとって、神道とは「現実の気力をはばむ穢(けが)れとさわり」を祓う「清浄の功」によって「ふたたび生の力をとりもど」させるものであったし、「世代から世代への生の永続」、つまり「生み、成し、生殖することを最も重んじた」ゆえに、「現実的な祖先崇拝と子孫の栄えへの願い」を基調としたものだった。

しかも、その一方で「宇宙は一つの迷夢にすぎないという仏教的諦念を観念的基礎として、ものにこだわらぬ生々活動をいとなみつづけて行くのが、われわれの民族の本来の心だと思われた」と太平洋戦争前の自分の思いを語っている。そして「個人的宗教ではなく、部族の宗教」すなわち「日本人の集団生活の自家用宗教」だと「神道」を解釈している(『一青年の思想の歩み』河出文庫 昭和29年)。

手塚の言う「現実的な祖先崇拝と子孫の栄えへの願い」という「神道」の内容は、加地伸行の言う本来の儒教の在り方に近い。加地は「儒教」とはシャーマニズム的祖霊信仰と「孝」の教えだと言う(『沈黙の宗教―儒教』ちくまライブラリー ㉚)。

実際、高取正男が指摘するように、天皇家の「大嘗祭をはじめとする朝廷の諸般祭儀が、儒教その他の大陸伝来の知識を援用しながら整序された」(前掲⑨)もので、いわゆる三種の神器もそれに漏れない。「伊勢の皇祖神の御形代」あるいは「御神体」とされる「神鏡」だが、形代とか神体は「天空の彼方に常在する神霊がそこに降臨し、宿るもの」(上掲⑨)で、加地の言うシャーマニズムの発想からきている。

天照大神を伊勢神宮に皇祖神と仰ぎ祭るのも、中国における「郊祀」が「天子の遠い祖先を祭っ」た儀式であるのと対応している(上掲⑨)。沖縄や朝鮮半島も含めて東アジアにおけるシャーマニズム的祖霊信仰は広範にわたっていた。しかし、中国に仏教が入ってくると、儒教で言う死者の「精神」に基づく「魂」が依りつく「祀壇・神主」を、仏教側が「仏壇・位牌」に置き換えるようになる。

また、本来インド仏教では遺体の処理と墓を顧慮しなかったのに、中国では、死者の肉体に基づく「魄」の依りつく白骨・遺体と墓とを重視する。こうしたことが日本仏教に採り入れられ、先祖との血統的連続性の尊重を「孝」として重視する中国で独自に作られた『盂蘭盆経』によって、日本にも「お盆(盂蘭盆)」の風習が採用された、というのが加地の主張である。

こうして、祖霊信仰・祖先崇拝は、儒教・神道的な思想・風俗としてよりも仏教的なそれとして意識されてくる。これが民衆にまで行き渡るのが、鎌倉仏教が民衆に浸透し、やがて寺請制度が出来上がる江戸時代前半である。

この時期までには庶民もお墓を持つようになり、今日の我々のお彼岸におけるお墓詣りにつながってくる。こうした仏教側による祖霊信仰のいわば独占に対抗したのが、このあとに見る儒家神道や復古神道である。

例えば平田篤胤の『玉襷(たまだすき)』には「我が此御国は神の本国にて、我ら各々ともに其御末」、つまり記紀神話の神々の末裔である、とする発想がある(『日本思想大系 平田篤胤 伴信友 大国隆正』)。その後、明治になって廃仏毀釈によって仏教勢力が衰退、代わって尊皇・国体精神が推進されてくると、祖霊信仰は「国家神道」に取り戻される。

例えば、キリスト教徒の新渡戸稲造も代表作の『武士道』で、「(神道の)祖先崇拝は系図から系図へと辿って皇室をば全国民共通の遠祖と為した」と述べ、国民的統一の象徴としての皇室の役割を論ずるのである(矢内原忠雄訳・岩波文庫 一九七四年 ㉛)。

太平洋戦争時の首相・東条英機(一八八四~一九四八)も極東裁判で巣鴨プリズンに収監されていた時、教誨師の花山信勝に次のように語った。