今度は仁兵衛のほうから木之子に使いを出す番である。恭平を播磨屋の養子に欲しい、という話を伝えたところ、頼りになる親戚だけに難なく認められた。仁兵衛は大喜びである。早速、恭平の名前で毎月幾ばくかの金を木之子に送ることにしてくれた。

播磨屋は公事宿(くじやど)と諸藩御用達(ごようたし)を業としていた。公事宿とは公事師のいる宿のことで、公事師とは公事つまり訴訟や陳情などの手続きの補助や代行をする仕事である。その間の宿舎も提供するので公事宿という。諸藩御用達とは大名相手の金貸しのことだ。

つまり弁護士とホテルと銀行の兼業である。生半可な知識で務まるものではない。

播磨屋は、大坂町奉行の役宅のある本町橋の東詰からわずか三町ほどの淡路町二丁目に位置していた。当時の大坂の公事宿は約五十軒で、各々に担当区域が割り振られており、播磨屋は主に河内郡の訴訟を担当していた。営業するには株と呼ばれる権利が必要で、株は百貫文から二百貫文で売買されていた。

恭平は文久元(一八六一)年に、播磨屋仁三郎として公事師になった。そして維新によって公事師が公許されなくなるまでの七年間、これを務めた。

訴訟も陳情も、定められた書式に沿って膨大な書類を作成しなければならない。養父仁兵衛がこれらの書式を雛型にまとめ上げた「書上仮控帳」を作っていたのを幸い、恭平はこれを忠実に学んで公事師の仕事を務めた。正確に遺漏なくという仕事の進め方は、経営者となってからも恭平の大きな武器になった。

幕末の動乱は、目端の利く恭平には大きな好機であった。諸藩御用達として軍資金調達の仕事が次々と舞い込んできたからである。当時の播磨屋の主な出入先は相州小田原の城主大久保加賀守と江州膳所(ぜぜ)の城主本多主膳頭であった。

※本記事は、2020年9月刊行の書籍『負けず 小説・東洋のビール王』(幻冬舎メディアコンサルティング)より一部を抜粋し、再編集したものです。