天才の軌跡④ セルヴァンテス

父親像の崩壊が起きた直後、庇護してくれるはずの良き権力者を失った人々は、悲嘆にくれる。中世は悲嘆にくれ神にすがる時代であった。しかし人々は徐々に権力者のいないことの利点を見出すことになる。すなわち自由である、そして個、自身の能力に自信を持ちはじめるのである。この時代はルネサンスと名付けられている。

『エル・シドの歌』に描かれた、父親像の崩壊の悲しみから、セルヴァンテスの時代にかけてスペイン人は少しずつ抜け出しつつあったことは、コロンブス、マジェランらが勇気をもって、より広い世界の探求に出てゆきたいという情熱にスペイン王国が援助したことにも表われている。

このような時代背景、すなわち、父親像による、経済的援助は受けるが、その庇護を望まず、未知の世界に飛び出そうとする自信を持ったルネサンス以降の人々が醸成した自由感にあふれた空気の中で、セルヴァンテスは生きたのである。そしてセルヴァンテス自身もこのような自信を持ち、冒険心に富んだ人であったのであろう。

『ドン・キホーテ』(岩波文庫)の訳者、永田寛定氏によると、セルヴァンテスの父は外科医であったが、耳が悪く貧しかったという。そして、セルヴァンテスが十八才の頃、父の家財に対する差し押さえがあったということは、その貧乏ぶりはかなりのものであったと推察される。

彼は二十才の時、父のもとを離れ、イタリアに行き、枢機卿に仕えていたが、この仕事に飽きたらず、イスパニアの軍隊に二十三才で入隊、翌年有名なレバントの海戦において左手に名誉の負傷を負うも、アフリカの各地を転戦し、二十七才の時、イスパニア海軍提督より感謝状を授けられたという。その後帰国しようとするも海賊に囚われ、アルジェの太守に売られ、五年間奴隷としての生活を強いられたという。

彼は身代金を、それを専門とするキリスト教僧侶団に払ってもらい、帰国したのは三十三才の時であった。彼は政府からの恩賞を望むが、かなわず、売れない詩、小説、戯曲などを書いていたといわれる。

四十才前後になると、彼はセヴィリアにおいて政府の購入係として働くようになったが、実務家としてのセルヴァンテスは散々であったようで、業務上の失策のため、数回投獄されている。そしてこの投獄中に『ドン・キホーテ』は書かれたといわれている。